20代後半で『CanCam』から『AneCan』へ移籍 Vol.27押切もえ
CanCam創刊40周年を記念して、歴代のOGモデルをクローズアップするスペシャル連載。専属モデル時代から今日までの軌跡を振り返りつつ、今だから話せる撮影裏話やプライベートなお話など、自分らしく輝き続ける彼女たちのリアルなメッセージをお届けします。
スぺシャル連載のラストを飾るのは、唯一無二の存在感で絶大な人気を誇り、“CanCam”黄金時代の立役者でもある押切もえさんが登場!
“カワイイ”や“モテ”の代名詞だった「CanCam」で、“かっこよくてカワイイ”という新しいジャンルを確立し、不動の人気を誇っていた押切さん。2001年に専属モデルに抜擢されて以来、後輩モデルやスタッフ、そして「CanCam」を常に引っ張ってくれる存在でした。そんな押切さんが「CanCam」を卒業したのは2007年。それと同時に「CanCam」のお姉さん雑誌として創刊された「AneCan」へ移籍し新たなステージへ。
「CanCam」で過ごした約6年間は「楽しいこともツラいことも、すべてが糧になっている」と話す彼女が「CanCam」卒業時に感じていたこと、そして「AneCan」移籍後の変化についても伺いました!
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どんな感情も『AneCan』で頑張る原動力になりました
ーー「CanCam」卒業のタイミングはどうやって決めたのですか?
「『AneCan』の創刊のタイミングで区切りをつけました。読者モデルから『CanCam』の専属モデルになって、最初は本当にわからないことだらけ。ポージングも表情の作り方も自分なりに悩んで葛藤しながら、2007年から約6年間走り続けて、また新たなチャレンジができるというのはすごくうれしかったです」
ーー卒業当時、どんな5年後、10年後をイメージしていましたか?
「いつかは結婚して、子供を育てたいと思っていました。家庭を大切にしながら、お仕事が続けられたらいいな、と。仕事はモデルにこだわらずに、文章を書いたり、絵を描いたり、話したり、分野を広げて、経験や感性を活かして表現する仕事をイメージしていました。10代の読者モデル時代から応援してくれている人たちに恩返しをしたい、見てくれている人に笑顔になってもらいたい、という気持ちは変わらず、でも届け方は色々な手段があっていいかなって。それを考えると、当時イメージしていたことが今叶っているかもしれないですね!」
ーー「AneCan」移籍後、「CanCam」時代を振り返って感じたことは?
「今まで一緒に頑張ってきたモデル仲間やスタッフさんとなかなか会えなくなってしまったことは、寂しかったですね。『CanCam』時代は、私の中でとても大切な時間で、多くの方に読んでいただいていた雑誌だったので、激動というか(笑)かけがえのない瞬間が詰まっていて、色々な思い出がありました。『CanCam』で学んだプラスの感情もマイナスの要素も『AneCan』で頑張るための原動力になったと思います」
ーー「AneCan」の専属モデルで意識したことは?
「『CanCam』と『AneCan』は、テーマや読者に届けたい情報がそれぞれ違うので、毎回企画の意図や編集スタッフの思いをしっかり聞くようにしていました。『AneCan』は創刊したばかりの雑誌だったので、スタッフもモデルたちも手探りなところがありました。スタッフの中には以前『CanCam』を担当していた方もいましたし、『AneCan』らしさってなんだろう、これでいいのかな?と、一緒に考えながら進んでいったような気がします」
読者モデルから飛び込んだ『CanCam』では、新たなステージで努力と挑戦を重ね、『AneCan』では、移籍と同時に創刊された新雑誌で、違った意味での“挑戦”を経験した押切さん。『CanCam』で培われたキャリアと、持ち前の“一生懸命”なマインドで、モデルとしてもひとりの女性としても、ますます輝きを放っていました。そんな一方で、頑張りすぎて弱音が吐けない苦しさを感じたことも…。
「今思うと、『CanCam』も『AneCan』時代も、もう少し甘えてもよかったのかなって思います。当時はそこまで意識していなかったのですが、無理しちゃってたんですよね。もちろん、モデルやスタッフの親しい方には甘えさせてもらってましたが、弱音を素直に言葉にしてちゃんと吐けない自分がいて…。撮影現場に入ったら、カメラの前で求められている自分を演じてしまったり、ずっと気を張っているところもありました。今思えばなんですけどね、もっと全力で楽しめばよかったなって思います」
結婚を転機に、頑張りすぎる自分に変化が
ーー仕事を続ける中で転機になったことはありますか?
「毎日のように自分の中でダメ出しや反省することがあったので(笑)、たくさんあったと思います。ひとつ大きかったのは、『AneCan』の対談連載。モデルのお仕事ではなかなかお会いできない方に会うことができましたし、対談で聞かせていただいた話をメモして、時折見返しては参考にしていました。あとは、小説を書いたりモデル以外のお仕事をして、初めて自分が求められている立場を客観的に知ることができたのも大きな転機になりました」
ーー今振り返って、20代にやっておくべきだった、と思うことは?
「もっとプライベートの時間も楽しんでおけばよかったと思います(笑)。20代は本当に仕事で忙しかったので。もちろんそれが苦ではなかったし、楽しくて好きだったから続けられました。でも、仕事以外で20代でしかできないこともたくさんあったかなぁ、と…。もうひとつは、当時お仕事で素敵な年上の女性に会う機会が多かったんです。もっと自分から声をかけて、いろんなことを聞いたり相談できてたら良かったな、と思います」
モデルとして活躍する一方で、2013年には長編小説『浅き夢見し』で小説家デビュー。さらに、’16年には『永遠とは違う一日』が第29回山本周五郎賞候補にもなり、小説家としての才能も開花。同じ年には『AneCan』専属モデルの卒業、そして結婚も発表しました。結婚は、押切さんにとって大きなターニングポイントだったと言います。
「学生時代からそうだったんですけど、人に甘えることが苦手だったので、結婚してから肩の力をふっと抜けるようになりました。家族ができたことで、頼れる人ができたというか…、ひとりで生きているんじゃないんだな、と実感するようになったんです。性格的に、できないことや苦手なことがある自分が許せなくて、気づかないうちに無理してしまうことが多かったんです。もう…、ただの完璧主義(笑)! それで自分を苦しめていたんですけど、それになかなか気づけなかった。というか、気づいてても気づかないふりをしていたのかも。例えば、明日〇時に〇をして、出番がこれくらいだからここまでにこれをやって、とか、前日からすごく詰めて考えていたんですけど、そんなに考えなくてもいいんじゃない?って思えるようになりました。最終的にいちばん大事なことは、いい笑顔とかいい情報を届けることで、それだけはブレちゃいけないんですけど、頑張りすぎていっぱいいっぱいだった私は、いい表情が出せなかったこともあったかも…と、今は反省していることも多いです」
『AneCan』を卒業後、モデル以外の仕事や結婚を経て、少しずつ肩の力が抜けていったと話す押切さん。自分に向き合いながら、妻として夫と支え合い、出産を経て、現在は2児のママに。駆け抜けた20代を語るその笑顔からは、キラキラと光るものだけではなく、たくさんの経験を重ねて得た大人の落ち着きがありました。
★スペシャル連載のラストとなる次回は、妻として母として…押切さんの気になる“今”をたっぷり聞かせていただきます。お楽しみに!
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