『もう二度と食べることのない果実の味を』第15話
ホテルの廃墟を見つけてから、わたしたちの逢瀬は毎日つづいた。こんな不健全な遊びに耽っている暇はないのに。勉強しないと、いけないのに。うしろめたさは、けれど行為がはじまると、たちまちどこかへ消えていった。
からだをつなげることは、まっくらな地下に沈んでゆくことに似ている。地底の王国。かたちのないものの国。わたしたちは手をつないだまま、官能の襞にもぐりこみ、うつくしくかがやく宝石のような快感をいっしょに採掘する。宝石はしだいに殖えてゆき、やがてまばゆいひかりが視界を白く灼きつぶす。
ひかりのなかに、いろんなものが流れだしていった。後悔も、焦燥も、過去も未来も、なにもかも。目鼻口から、湯のように、どうどうと音をたてて落ちてゆく。
セックスが原因で生じた苦しみを、セックスで紛らわせる日々。矛盾している、と思う。それでも、いまさら引き返すことはできない。
見通しのきかない、不透明な未来への不安が高まるほど、その裏返しとして、いま目の前にあるものの存在感が肥大してゆく。たしかなもの、さわることのできるものに対する、過剰な執着。
地中深くでのたうちながら、わたしたちは互いの体に、どんどんのめりこんでいった。
コップのなかの氷が溶けて、からりと崩れた。
わたしは机に赤ペンを置き、大きくのびをした。夏休みがおわるまで、のこり一週間を切っていた。受験勉強は、予定より大幅に遅れていた。暗記するつもりだった英単語のリストはまだ半分も覚えられていないし、苦手な数学の記述も正答率は低いままだ。
時計をみると、午後四時過ぎだった。出かけるにはすこし早いけれど、どうせ集中できないのなら、ここで坐っていても仕方ない。
階下に降りると、居間の方から両親の低い声がした。またか、とわたしは息を吐く。
数年前から、父の働いているホテルの経営状態が、すこしずつ悪化しているらしい。解雇、倒産、リストラ、という不穏な単語がまじった両親の会話を、ときどき耳にするようになった。
階段を降りきると、母がぱっとこちらにふりむいた。父は、何事もなかったようにダイニングで新聞を広げている。
「あら、冴。どこか行くの?」
「うん。図書館」
逃げるように家を出ようとすると、背後から声が飛んだ。
「今夜、花火大会だって。人通り多くなるから、気をつけてね」
外に出ると、太陽の最後の陽ざしが町をくっきりと照らしていた。坂道をおりてゆくと、母の言ったとおり、ふだんよりずっと人の往来が激しかった。地元の住民らしい普段着の家族連れ、浴衣をまとったカップル、派手な声で騒ぐ若者たち。
裏通りに入るとさすがに人気はなかったけれど、大通りのざわめきがかすかにきこえてくる。しばらく進むと、いつもの廃墟が見えてきた。
空き地の前には、制服姿の土屋くんが立っていた。腕時計をみると、待ち合わせの午後五時まで、あと数十分ある。
「土屋くん、早いね。どうしたの?」
「勉強にあんまり集中できなくて」
「わたしも」と草むらに足を向けたとき、道のむこうから二台の自転車が近づいてきた。
警察だった。わたしはとっさに、踏み出しかけた足を元に戻した。二人連れの警官はわたしたちを一瞥し、そのまま走り抜けてゆく。
「今日は花火大会だから。巡回してるんだと思う」
自転車が見えなくなってから、土屋くんがつぶやいた。
「念のため、ここはやめておいた方がいいかもしれない」
「じゃあ、どうするの?」
しばらくもじもじしていた土屋くんが、口をひらいた。
「母さん、今なら仕事でいないけど」
彼は、目を逸らしたまま言った。
「……僕の家、来る?」
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
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(c)Sarie Hinakura・小学館