『もう二度と食べることのない果実の味を』第2話
授業のあとは、いつものように図書室へむかう。テーブルには勉強中の生徒がぽつぽつと坐っていて、シャープペンシルの紙面を削る音がたえまなくひびいていた。わたしはいちばん端の席に坐り、ノートをひらいた。
集中していると、時間はあっという間にすぎてゆく。最後の丸つけを終えて時計をみると、午後五時五十分を指していた。帰りのバスは六時発だ。わたしは急いで荷物をまとめて学校を飛び出し、停留所のバスに乗りこんだ。
車内は、部活帰りらしいジャージ姿の女の子たちでいっぱいだった。ふたりがけの席が空いているのを見つけて窓ぎわに坐ると、バスが動きだした。山の表面にぐるりと糊で貼りつけたような細い道路を、のろのろとくだってゆく。すれちがうのは地元の住民の小さな車だけで、半年前までたくさん走っていたタクシーや観光バスは一台も見かけない。
毎年冬になると、温泉めあてにやってくる観光客で町はお祭りみたいに賑わう。漫画のような二階建てバスや、ぴかぴかひかる黒くてほそながい車が、パレードみたいにひっきりなしに行き交う。けれど暖かくなってくると、町で見かける客の姿はぐんと減る。ちょうど今の時季、夏の盛りがどん底だ。
海辺のホテルの調理場で働いている父によると、客全体の数が、昔に較べてびっくりするほど少なくなってきているらしい。わたしが生まれる前は、冬だって、今の倍以上の人びとが押しよせてきたそうだ。商店街はもちろん、ホテル前の大通りや砂浜、地元の人がつかう銭湯や個人商店まで、どこもかしこも観光客でみっしりとあふれかえっていた。
けれど、景気が悪くなってから町は大きく変わった。客足が激減し、ホテルはつぎつぎに廃業。商店街にもシャッターが目立つようになり、町全体が巨大な廃墟のようだった。
町の人たちが必死に観光客の誘致に励んだおかげで数年前にすこし持ち直したけれど、最近また、客の数が減りはじめている。このままではずるずると廃墟の時代にもどってしまうだろう、といつか父は言っていた。
海と山。坂道の町。子どもの頃からずっと目にしてきた景色。オレンジ色のひかりのなかで美しく静止しているこの町は、今この瞬間にも、目に見えない速度で、滅びにむかいつつあるのだろうか。
バスのなかの女の子たちは、部活動で疲れたのか、いつしかみんな眠りに落ちていた。どこか懐かしいような、夕暮れの甘いひかりが、窓からとろとろと射しこんでいる。静まり返った車内で、わたしは単語帳を取りだすのも忘れて、水平線ににじむ夕陽をながめつづけた。
「ただいまー」
玄関のドアをあけたとたん、肉とバターのあまい香りがふわりと匂った。リビングに入ると、カウンターキッチンに立っていた母が「おかえり」と顔をあげた。
「今日のごはん何?」
「鶏のソテーと大根サラダ。もうできたから、着替えてきて」
「はーい」とわたしは階段をのぼり、自室でセーラー服から部屋着に着替えた。居間に戻ると、ちょうど帰宅したらしい父が食卓についていた。母と三人で「いただきます」と声をあわせて箸を手に取る。
「ねえ、お姉ちゃんっていつ帰ってくるの?」
訊ねると、母がサラダをつつきながら答えた。
「瑞枝? 七月末に、ちょっとだけ顔を見せにくるって言ってたけど。どうして?」
「とくに用事はないけど。真帆が会いたいって言ってたから」
「真帆ちゃんって、向野さんの家の子か?」
唐突に、父が口をはさんだ。
「そう。昔よく家にきてた」
「覚えてるよ。いつも瑞枝にくっついてた、くりっとした目の女の子だろ。どこの高校にいくんだろうな」
「前に聞いたときは、四浜高校が第一志望って言ってたよ」
父は「四浜か。中の下だな」とつぶやいて、わたしの顔をみた。