『もう二度と食べることのない果実の味を』第4話
「先週に引きつづき、各班作業を進めること。今日が一学期最後の総合だから、できれば最後まで仕上げてね。じゃあ、始めて」
担任の先生の声にしたがって、生徒たちは折り畳まれた模造紙を机の上にふわりと広げた。
月曜日の五時間目は、総合の授業だ。
グループワークが中心で、ほかの教科にくらべると楽だけれど、気は抜けない。さぼったり、ふざけたりしていると、内申書に低評価の文章を書かれてしまうからだ。
それなのに、同じ班の新野さんと村西さん、川本さんは、さっそく男子たちとお喋りをはじめた。高い笑い声が耳につく。
資料集めと文章づくりは、学期の前半に班のみんなで分担して行った。三年生になったばかりの頃は、まだお互いのことをよく知らなかったおかげで、気を遣いあうようにして効率よく作業することができた。
けれど、あたらしいクラスに慣れてくるにつれて、すこしずつ班の緊張感は薄れていった。心の内でため息を吐き、模造紙をひらく。とたんに描きかけの龍の絵が目に入って、ささくれていた心がやわらいだ。
総合学習のテーマ「町についての新聞づくり」にあわせて、この班がえらんだ題は「温泉の歴史」だった。
温泉の湧く土地には、開湯伝説が言い伝えとしてのこっていることがある。わたしたちの町の温泉にも、古いものがたりがあった。海にむかってそびえている山々の地下に、巨大な二匹の龍が横たわっているという伝説だ。紅い雌の龍と、白い雄の龍。
正確には、龍たちはただ臥しているのではなく、交合しているらしい。たえずふかく繋がりあった雌雄二匹の龍の、目鼻口からあふれだす熱い体液が、温泉として、町のそこかしこから湧きだしているのだと、古い資料に書かれていた。
それを読んだとき、班の男子たちはこれ見よがしに茶化してみせた。「うわ、きもちわりい。変態じゃん」「龍って、蛇みたいなもんだろ。どうやってやんの」などと騒ぐ彼らに、女子たちは「ちょっとやめてよー」「ほんと最低」と叫びながら、いっしょになって楽しんでいた。
下絵に沿って、色鉛筆でていねいに鱗のりんかくをなぞる。ふちどりが終わったら、今度は鉛筆を寝かせるようにして、一枚一枚、鱗を紅く染めてゆく。すこしずつ、時間をかけて絵を描いてゆく作業は、わりと楽しい。紙面の左側には、すでに描きおわった白龍がのびのびと横たわっていた。
資料に載っていた図版をみたとき、あまりの迫力にわたしは息をのんだ。ぱっくり切られたホールケーキのような山の断面図と、その空洞をみっちりと埋め尽くす、龍の体。
龍たちは、いまもわたしたちの足元にいるのだろうか。鉛筆をうごかしながら、わたしは想像してみる。黒い土のしたで、ぬらりとひかる真紅の鱗。何千年も地下で暮らしているのなら、きっと瞳は退化しているだろう。
淡いみどりに濁った瞳で、雌の龍は肢の爪をつかって、地中をえぐるようにすすんでゆく。そうして雄の龍をさぐりあてると、その胴に、血がにじむほどつよく爪を突きたてる。雄の白磁の鱗が、鮮血でつややかに濡れる。土と粘液にまみれてまざりあう、盲目の巨大な神さまたち。
「山下さん、今どんな感じ?」
鱗を塗っていると、ふいに新野さんの声がふってきた。
「なんか、ごめんね。ずっと任せきりになっちゃって」
机に背を向けていた村西さんと川本さんも、ふりかえって覗きこんできた。
「すごーい、もうほとんど完成じゃん。さすが山下さん」
「これだけできてたら、今日はもういいんじゃない?」
「うん、でもあとちょっとだから。仕上げてしまいたい」
そう返すと、村西さんが笑顔を浮かべて言った。
「ねえ、あたしたち、なんか手伝うことある?」
「ううん、大丈夫」
わたしは首を横に振った。本文はほとんど完成している。絵は、記事の飾りとして勝手にわたしが描いているだけだ。
それに、わたしは村西さんがすこし苦手だった。よく通る声に、強気な明るい性格。わたしとは正反対のタイプで、総合の授業以外でまともに話をしたことはない。
こっちがそう感じているということは、向こうもわたしのことをそんなに好いてはいないだろう。ここでよけいなことを口にすれば、あとで文句を言われるかもしれない。
村西さんはわたしの言葉を聞くと、口元をゆがめるように笑った。
「そう? じゃ、なんかあったら呼んでね」
「うん、ありがとう」
三人がお喋りにもどったのを見とどけてから、ぐるりと辺りを見わたした。
午さがりの教室は、おだやかなざわめきで満たされていた。真帆も、佐藤さんといっしょに楽しそうに笑っている。由佳子は、机の下でこっそり漫画を読んでいるようだ。わたしのちょうど正面、教室の窓際の席には、土屋くんが坐っていた。いつものように、だれとも喋ることなく、黙々とカラーペンを動かしている。
ふいに、彼が顔をあげた。わたしはあわてて視線を手もとに戻し、色鉛筆をうごかした。龍の鱗が、ゆっくりと、紅く、色づいてゆく。
総合の時間が終わってから、わたしはいつものように図書室にむかった。教室を出て廊下を歩いていたとき、階段脇にあるトイレから、にぎやかな笑い声がひびいてきた。
「ねー、ほんとうざい。さっさと消えてほしい」
聞きおぼえのある、高い声。村西さんだ。