『もう二度と食べることのない果実の味を』第5話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されます。CanCam.jpでは、この衝撃作品の試し読み連載を開始。どこよりも早く、作品をお届けします。

『もう二度と食べることのない果実の味を』第5話


もう二度と食べることのない果実の味を

 先生から受け取った紙をひらくと、「二」と書かれていた。

 火曜日の、曇った午さがり。ざわめきのなか、黒板の数字の下に自分の名字を書き入れて、席に戻る。椅子に坐ると、由佳子が「離れちゃったね」と残念そうに笑った。

 学期末の掃除の班は、「ふだん話さない人とも親交を深めてほしい」という担任の気まぐれで、くじ引きで決められることになった。二班はバスケ部の中上くんと濱くん、佐藤さん、そして村西さんだった。もともと仲の良い、明るくてにぎやかな人たち。班員同士でかたまると、わたしを除いた四人でさっそくお喋りを始めた。

「あれ、一人足りなくね?」

 中上くんが、よくとおる声で言う。濱くんが、応じるように数えだした。

「いち、にい、さん、し、」

 ご、だけは口に出さず、わたしを指さす。

「うわ、ほんとだ。誰だよ」
「いいじゃん、こっちに裕也呼ぼうぜ」

 騒ぐ二人のうしろから、ふいにだれかが顔を覗かせた。土屋くんだった。

「なんだ、おまえか」

 中上くんはあからさまにがっかりしたようだった。濱くんは軽く舌打ちすると、「さっさと終わらせようぜ」とあるきだす。

 ほうきや雑巾を片手に、廊下に並べられた大量のバケツを次々と手に取って、生徒たちは学校中に散ってゆく。わたしたちの班は、理科準備室の担当だった。

「はあー、めんどくさ。一時間も掃除とか、だるすぎ」

 ほうきをくるくると剣のように回しながら、濱くんがうんざりしたように言った。

「ほかのバスケ部のやつら、おなじ班になってたよな。どこだっけ?」
「体育館だろ」
「ここから遠いじゃん」
「でも体育館って広いし、人手いるよな。理科準備室とか、六人もいらねえだろ」

 ちらりと女子の方を見て、中上くんが言う。

「佐藤と村西も、行く?」

 とたんに、ふたりは騒ぎだす。「えー」「だめだよー」と口々に言いながら、誘ってもらったことがうれしいのか、顔はほころんでいる。中上くんは満足そうに「じゃあ決まりな」と言い、濱くんがわたしの方にふりかえった。

「てことで。悪いけど、たのむわ」
「適当でいいよ。俺らみたく、さぼっちゃってもいいし」

 じゃあよろしくー、と間延びした声を残して、四人はもつれあうように歩きだした。のこされたわたしと土屋くんは、顔を見合わせた。

「……どうする?」

 おそるおそる訊ねると、彼は黙ったまま、廊下に置き去りにされたバケツとほうきを手に取った。わたしもあわてて、あとを追う。

 理科準備室は、理科室の真向かいに位置している。そういえばこの部屋に入るのは初めてだな、と思いながら、土屋くんにつづいて足を踏み入れた。

 部屋は半地下になっていて、思ったよりもずっと広かった。黴のにおいをふくんだ空気は真夏とは思えないくらいひんやりしていて、かすかにざらついている。窓は黄色く変色したカーテンでおおわれていて、破れ目から漏れだしたわずかな光線が、床に点々と射していた。

 ぐるりと辺りを見わたして、わたしは思わずため息を吐いた。棚、脚立、ダンボール箱、人工の観葉植物。あらゆるものの表面に、埃がたっぷりと厚くふりつもっている。まるで、部屋ぜんたいが白い胞子に蔽われているようだった。これでは二人どころか、六人でもとうてい間に合わない。

 呆然と立ち尽くしていると、隣の土屋くんが床にごとりとバケツを置いた。手にした雑巾を浸して絞ると、入り口近くのラックを拭きはじめる。たしかに、文句を言っていてもはじまらない。彼に倣って、わたしも雑巾を手に取った。

 黙々と拭き掃除をする土屋くんの背中を見ながら、彼とおなじ班でよかった、とひっそり思った。勉強も、いつかの体育も、掃除も、目の前のことひとつひとつにきちんと向きあうその姿勢は、わたしの信じる正しさと、合致している。

 わたしは彼の対角に位置する、部屋の奥の棚からはじめることにした。ずらりと並べられているのは、臓器の模型だった。グレープフルーツほどのおおきさの眼球。うつくしい彫刻のような外耳。巨大な毒々しいケーキみたいな皮膚の断面模型。

 となりのガラス製のケースのなかには、脊柱が吊るされていた。ゆるやかな白い曲線をえがいて、宙に静止している。にんげんのうなじに切りこみをいれ、そこからすらりと引き抜いてきたばかりのような、きれいな骨。

 ほかにも、いろいろな種類の模型があった。脳、頭蓋骨、気管、大腸、胎児の模型が填めこまれた子宮。うすぐらい部屋に散らばって浮遊する、たくさんの器官。まるで、裏返しになった自分の体のなかにいるような、ふしぎな気分だった。

 両性具有の人体模型を拭いながら、わたしはぼんやりと夢想する。もしここがほんとうに人の体内なら、きっとたのしいだろう。ぶらさがった袋や骨の下をかいくぐり、ぬったりと脈動する肉壁をつたい歩く。こまかい血の筋が浮いた赤い地面には薄黄いろに濁った体液が溜まっていて、歩を進めるたびにぴたぴたとはねる。時間を忘れて、いくらでも遊んでいられそうだ。肉でできた、いびつな遊園地。皮膚の下の、奇妙な世界。

 ふいに、重たいものがこすれるような音がした。ふりむくと、脚立に乗った土屋くんが、高い位置にある棚を拭おうと手をのばしている。脚立はかなり年季が入っていて、わずかに傾いでいた。彼が重心を移動させるたびに、不穏な軋みをあげる。

 危ないな。わたしは、口をひらいた。

「土屋くん、」

 おりたほうがいいよ。そう続けようとした、そのとき。

 

 脚立が、ぐらりとバランスを崩した。

 

 土屋くんのからだが、一瞬、宙に浮く。次の瞬間、鈍い音がひびいた。

 やわらかいものが硬い床に叩きつけられる、音。つづけて、硝子の割れる、鋭い音。

「土屋くん!」