『もう二度と食べることのない果実の味を』第12話
デスクトップライトの灯りに寄ってきた羽虫が、不快な音をたてて飛びかっている。羽音が近づくたび、夕方に蚊に刺された太腿が疼いた。
午後八時過ぎ。わたしは自室で、国語の記述問題を解いていた。
なにげなく読点を打ったとき、手が止まった。升の右上に置いた、ちいさな点。なんだか水滴に似ている。文章を濡らす、ちいさなしずく。
そう思ったとたん、じわり、とおなかの底になまぬるいものが滲みだした気がした。
土屋くんと会わなくなって、三日が経つ。
日々は一見、元通りになったようだった。ごはんをたべて、勉強して、ねむって。そのくりかえし。
ただ、毎日ひどく咽喉が渇いた。いくら水をのんでもおさまらない、灼けるような渇き。手足の先は、いつしかぼんやりと微熱を帯びたようになった。
うずくような渇き。けだるい熱。それに、しろい残光。あの日、夕闇にくっきりと浮かびあがっていた女の尻が、瞼に灼きついて剥がれない。
わたしはペンを置き、椅子の上に膝を引き寄せた。太腿のなめらかな皮膚が一点、こんもりと朱く滲んでいる。
たぶん、神社で刺されたのだろう。
今日の午後、図書室帰りに寄った、いつもの神社で。
どうして足を向ける気になったのかは、自分でもわからない。もちろん、土屋くんの姿はなかった。当たり前だ。逢瀬はもうおわりにしようと、ほかでもない彼が口にしたのだから。それでも、無人の鳥居をみた瞬間、心の内でなにかが音もなく萎れてゆくのがわかった。
ふいに、痒みに意識が引き戻される。太腿の肌は、痛々しくふくれあがっていた。針でつついたら、なかから汚く濁った体液があふれてきそうだ。
思いきって腫れた皮膚を掻いてみると、痒みはたちまち快い痛みにかわった。うしろめたい快感に、ゆびさきまでもがほの紅く染まってゆくようだった。
ひたすら掻きむしっていると、熱い吐息がこぼれた。たぶんわたしは、心のどこかでは信じていた。彼がくることを。いつものようにさしだされる、舌の熱さを期待していた。
咽喉が渇く。痒みはいよいよ増してゆく。行き場をうしなった熱が、ほのあまい毒素のように、体のなかに溜まってゆく。
くらむような疼きのなかで、土屋くんに会いたい、とおもった。
熱を吐きだしたい。彼の熱をむさぼりたい。くちづけよりももっと深いやり方で、欲望をぶつけあいたい。この熱をわけあえる相手は、土屋くんしかいない。
ベッドの上のスマートフォンを引っ掴み、メールボックスをひらく。考える間もなく浮かんだ言葉を、そのまま入力する。
『明日、いつもの場所にきて』
送信ボタンを押そうとしたとき、指に違和感を覚えた。みると、赤く濡れている。血だった。つよく掻きすぎたのか、太腿の皮膚がわずかに破れている。快感に夢中で、ぜんぜん気がつかなかった。
スマートフォンの画面、メールの文面の上にも、血痕は点々と散っていた。まるで文字自体が発情して、紅い蜜をはしたなく垂れながしているようだった。
送信完了、の表示をたしかめてから、爪で画面の血をこそぎ落とす。ゆびさきをくちにふくむと、鉄のにおいがひろがった。
ぐうぜんの事故のようなくちづけからはじまった、土屋くんとの関係。恋人でも友人でもない、否定形でしかあらわせないような、あいまいな繋がり。その気になれば、いつでもたやすく断ち切れるはずだった。それなのに。
つめたい汗が、こめかみに滲む。唇から指を抜いた拍子に、透明な唾液の糸が滴った。解きかけの問題集の上には、ひかりに近づきすぎた羽虫たちの死骸が散らばっていた。
暗紅色のおおきな花びらが、目の前をゆっくりと落ちていった。
みあげると、階段の両側にならんだ夾竹桃の花が、燃えるようにかがやいている。
時刻は午後五時前。夏の夕べのうすあおい空気と、花びらに透ける朱いひかりが、昏い路地をあざやかに彩っていた。木洩れ日でまだらになった石段をふみしめてゆくと、つらなる軒のすきまに鳥居の先端がみえてきた。
結局昨夜、土屋くんから返事はこなかった。けれど、わたしのなかには根拠のない確信があった。彼は、きっと来る。
狭い石段を降りきって、家と家のすきまの小径を渡る。やがて、ぽっかりとひらいた空き地に出た。夕ゆう凪なぎの空にそびえる朱い鳥居を、心臓の鼓動をおさえながらくぐりぬける。手水舎では、二匹並んだ龍が、滾々と水を吐いていた。
参道を歩いていると、ふと、左手側の砂利がみだれていることに気づいた。まるで、だれかがそっと踏んでいったような、ささやかな荒れかた。参道を逸れ、跡をたどるように進んでゆく。
すると、前方に白い影がゆれた。カッターシャツに、黒いズボン。境内のふちにこしかけて、ぼんやりと樹々をながめている。
隣に腰を下ろしても、彼はこちらを見ようとしなかった。目の前にひろがる森に、視線を移す。あらかし。むくろじ。楠。けやき。いろんなかたちの樹々の影が、中空をいびつに埋めている。雨はもうずいぶん長く降っていないはずなのに、濡れた土と、羊歯の匂いがした。
「昨日みたいにメールするのは、やめてほしい」
土屋くんが、口をひらいた。
「勉強、しないといけないから」
「でも今日は、来てくれたんだね」
そう言うと、土屋くんは、初めてこっちを向いた。ほそく眇められた瞳は、怒っているようにも、かなしんでいるようにもみえた。
「もう連絡しないでって、言いにきただけ」
「ほんとうに?」
わたしは、ゆっくりと言った。
「ほんとうに、それだけ?」