悲鳴まじりの声がもれる。わたしは雑巾を放りだして、駆け寄った。
大量の埃が宙に舞ったせいか、空気は濛々と白くけぶっていた。床に散ったガラスの破片は、高い窓から射す光線をうけて、宝石のように眩くかがやいている。
きらきらとひかる烟の底に、土屋くんはうずくまるようにして倒れていた。
「大丈夫?」
しゃがみこんで、おそるおそる訊ねると、彼は顔をあげた。眼鏡の外れた顔は、びっくりするくらいあどけなかった。よくみると、頬にひとすじ、真紅の絹糸をはりつけたような傷がはしっている。
「……うん」
ちいさな、けれどはっきりした声が返ってきて、ひとまずほっとする。
土屋くんは、ゆっくりと体を起こした。制服についた埃を払う彼をみながら、意外にしっかりした体つきだな、と場違いな感想をぼんやりと抱いた。体育のときはたよりないくらい痩せているようにみえたけれど、近くでみると、印象は全くちがった。骨組みがおおきくて肩が広い。
身長はわたしとそんなに変わらないし筋肉もついていないけれど、女子のからだとはまるでちがう。平たく骨ばった体躯。
「どっか怪我とかしてない?」
「ん……」
土屋くんは、もぞもぞと右足を動かした。落ちたときに、ひねったのだろうか。
わたしは、言った。
「出して」
「え?」
「足、出して。見せて。捻挫してるかも」
彼はおずおずと、右足を前に立てた。上履きと靴下を脱ぎ、制服の裾をまくる。
とたんに、くろぐろと濃い体毛が目にとびこんできた。肌のうえで凶悪にのたうつ、黒い毛。一本一本が見たこともないくらい太くて、長い。
おとこのひとは、みんなこうなのだろうか。みてはいけないものをみてしまったようで、心臓の鼓動が速くなった。けれど、なぜか目を逸らせない。果実のようなのどぼとけ。大きなくるぶし。ごつごつした骨と、筋ばった肌。のたうつ毛。どれもわたしの体にはない、異質なものだ。幼い顔立ちに似あわない、男のからだ。
ふいに、おなかの奥が熱くなった。
なにか大きなものが、ゆるりと頭をもたげる。熱に浮かされたときにも似た、あるいは喉の渇きにも似た、あまく気だるい疼きが、全身にひろがってゆく。
「ちょっと、ごめん」
わたしは床に手をついて、もう片方の指をのばした。
「山下さん?」
戸惑ったような声にかまわず、白くはりつめたくるぶしの皮膚に、そっとふれた。
ざり、と指の下で体毛がねじれるようにこすれる。肌は乾燥していて、なんだか粉っぽかった。指先にかすかに力をこめると、皮下の肉が弾力で押し返してくる。
「ここ、痛い?」
見あげると、彼はすばやく顔をそむけた。
「だいじょうぶ」
かすれた吐息のような、声。
ぞくりとした。熱いものが、おなかの底からゆっくりと這いあがってくる。
「ここは?」
アキレス腱のあたり、かかとの骨を、優しくつまむようになでてみる。
「いたくない」
「じゃあ、ここ」
内側のくるぶしを、つつ、となぞる。かるく力を入れると、う、とかすかな呻きが洩れた。顎から滴りおちた滴が、ぽたりと床ににじむ。
「どう?」
「……ちょっと、痛いかも」
切なげに眉を寄せる彼のからだから、ふうわりと、汗のにおいがした。
若いけもののような、雄の体臭。あまい、におい。
──もっと、ふれてみたい。
その瞬間、なにかが、ぷつん、と破れた。気づいたときには、彼の胸元に手を置いていた。
やわらかな、淡い光の底で、わたしたちはみつめあった。目の前の頬を、蜜のような血がきらきらとながれてゆく。
まっ白な肌をつたう、美しい、紅い河。
わたしは、まるで当然のように、舌をだして、血を舐めた。
そのまま血の筋をたどってゆくと、なにかにふれた。ふっくりとした、ふたつの肉。
土屋くんの、くちびる。
そう気づいたとたん、背筋がすうっと寒くなった。
何が起こったのか自分でもわからないまま、わたしはあわてて彼の体からおりた。いきおいあまって、うしろむきに床に倒れこむ。
土屋くんは、さっきと全くおなじ姿勢で、うすく口をひらいて、わたしをみていた。
両目は、やけに澄んでいた。カーテンのすきまから射す僅かな光をうけて、ちらちらとかがやいている。
「あ……」
わたしは、とっさに立ちあがった。
呆ほうけたように坐りこむ土屋くんに背を向けて、走りだす。
キス、してしまった。
それも、好きでもなんでもない、男の子と。
わたしの方から、強引に。
準備室の扉をあけると、とたんに、真昼のまばゆい白い陽射しが目に飛びこんできた。窓の向こうには、いつもどおりの町の景色がひろがっている。つらなる山も、家々の屋根も、ひとかけらだけ見える海も、いまはすべてがひどく遠い。
唇にふれると、表面はささくれ、かわいていた。まるで、ごっこ遊びみたいなくちづけだった。そこにあったものに、たまたまふれてしまった、という感じ。かすめるようにふれあった感触は、それでもたしかにのこっている。
靄がかかったような思考のなかでふと、彼は一度も抗わなかったな、とおもった。
★次回 第6話はこちら
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館