『もう二度と食べることのない果実の味を』第5話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されます。CanCam.jpでは、この衝撃作品の試し読み連載を開始。どこよりも早く、作品をお届けします。

 悲鳴まじりの声がもれる。わたしは雑巾を放りだして、駆け寄った。

 大量の埃が宙に舞ったせいか、空気は濛々と白くけぶっていた。床に散ったガラスの破片は、高い窓から射す光線をうけて、宝石のように眩くかがやいている。

 きらきらとひかる烟の底に、土屋くんはうずくまるようにして倒れていた。

「大丈夫?」

 しゃがみこんで、おそるおそる訊ねると、彼は顔をあげた。眼鏡の外れた顔は、びっくりするくらいあどけなかった。よくみると、頬にひとすじ、真紅の絹糸をはりつけたような傷がはしっている。

「……うん」

 ちいさな、けれどはっきりした声が返ってきて、ひとまずほっとする。

 土屋くんは、ゆっくりと体を起こした。制服についた埃を払う彼をみながら、意外にしっかりした体つきだな、と場違いな感想をぼんやりと抱いた。体育のときはたよりないくらい痩せているようにみえたけれど、近くでみると、印象は全くちがった。骨組みがおおきくて肩が広い。

 身長はわたしとそんなに変わらないし筋肉もついていないけれど、女子のからだとはまるでちがう。平たく骨ばった体躯。

「どっか怪我とかしてない?」
「ん……」

 土屋くんは、もぞもぞと右足を動かした。落ちたときに、ひねったのだろうか。

 わたしは、言った。

「出して」
「え?」
「足、出して。見せて。捻挫してるかも」

 彼はおずおずと、右足を前に立てた。上履きと靴下を脱ぎ、制服の裾をまくる。

 とたんに、くろぐろと濃い体毛が目にとびこんできた。肌のうえで凶悪にのたうつ、黒い毛。一本一本が見たこともないくらい太くて、長い。

 おとこのひとは、みんなこうなのだろうか。みてはいけないものをみてしまったようで、心臓の鼓動が速くなった。けれど、なぜか目を逸らせない。果実のようなのどぼとけ。大きなくるぶし。ごつごつした骨と、筋ばった肌。のたうつ毛。どれもわたしの体にはない、異質なものだ。幼い顔立ちに似あわない、男のからだ。

 ふいに、おなかの奥が熱くなった。

 なにか大きなものが、ゆるりと頭をもたげる。熱に浮かされたときにも似た、あるいは喉の渇きにも似た、あまく気だるい疼きが、全身にひろがってゆく。

「ちょっと、ごめん」

 わたしは床に手をついて、もう片方の指をのばした。

「山下さん?」

 戸惑ったような声にかまわず、白くはりつめたくるぶしの皮膚に、そっとふれた。

 ざり、と指の下で体毛がねじれるようにこすれる。肌は乾燥していて、なんだか粉っぽかった。指先にかすかに力をこめると、皮下の肉が弾力で押し返してくる。

「ここ、痛い?」

 見あげると、彼はすばやく顔をそむけた。

「だいじょうぶ」

 かすれた吐息のような、声。
 ぞくりとした。熱いものが、おなかの底からゆっくりと這いあがってくる。

「ここは?」

 アキレス腱のあたり、かかとの骨を、優しくつまむようになでてみる。

「いたくない」
「じゃあ、ここ」

 内側のくるぶしを、つつ、となぞる。かるく力を入れると、う、とかすかな呻きが洩れた。顎から滴りおちた滴が、ぽたりと床ににじむ。

「どう?」
「……ちょっと、痛いかも」

 切なげに眉を寄せる彼のからだから、ふうわりと、汗のにおいがした。

 若いけもののような、雄の体臭。あまい、におい。

 

 ──もっと、ふれてみたい。

 

 その瞬間、なにかが、ぷつん、と破れた。気づいたときには、彼の胸元に手を置いていた。

 やわらかな、淡い光の底で、わたしたちはみつめあった。目の前の頬を、蜜のような血がきらきらとながれてゆく。

 まっ白な肌をつたう、美しい、紅い河。

 わたしは、まるで当然のように、舌をだして、血を舐めた。

 そのまま血の筋をたどってゆくと、なにかにふれた。ふっくりとした、ふたつの肉。

 

 土屋くんの、くちびる。

 

 そう気づいたとたん、背筋がすうっと寒くなった。

 何が起こったのか自分でもわからないまま、わたしはあわてて彼の体からおりた。いきおいあまって、うしろむきに床に倒れこむ。

 土屋くんは、さっきと全くおなじ姿勢で、うすく口をひらいて、わたしをみていた。

 両目は、やけに澄んでいた。カーテンのすきまから射す僅かな光をうけて、ちらちらとかがやいている。

「あ……」

 わたしは、とっさに立ちあがった。

 呆ほうけたように坐りこむ土屋くんに背を向けて、走りだす。

 

 キス、してしまった。

 それも、好きでもなんでもない、男の子と。

 わたしの方から、強引に。

 

 準備室の扉をあけると、とたんに、真昼のまばゆい白い陽射しが目に飛びこんできた。窓の向こうには、いつもどおりの町の景色がひろがっている。つらなる山も、家々の屋根も、ひとかけらだけ見える海も、いまはすべてがひどく遠い。

 唇にふれると、表面はささくれ、かわいていた。まるで、ごっこ遊びみたいなくちづけだった。そこにあったものに、たまたまふれてしまった、という感じ。かすめるようにふれあった感触は、それでもたしかにのこっている。

 靄がかかったような思考のなかでふと、彼は一度も抗わなかったな、とおもった。

 

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雛倉さりえ

1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。

 

写真:岩倉しおり

本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館

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