きゃははは、三奈、口悪いー、と、川本さんと新野さんの笑い声がかぶさる。わたしは足を止めて、そっと壁にもたれた。心臓がひりひりと痛む。こういうとき、何の根拠もないのに、自分のことを言われているように感じてしまうのは、なぜだろう。
早くここから立ち去ってしまえばいい。そう思うのに、足が動かない。しばらく耳をすませていると、彼女たちが話しているのは、吉野先生という数学の教師のことだとわかった。ほっとして、足を踏み出そうとした瞬間、とつぜん「山下さんって」という村西さんの声がした。
「よく吉野のところに質問しに行ってるよね」
どきりとした。
今度こそ本当に、わたしのことだ。
「あ、みたことある。ほんと真面目だよね」
応じた新野さんに、村西さんは笑いながら言った。
「よくあんなに頑張れるよね。なんか、みてて可哀そうなくらい。あんなんで人生楽しいのかなって思う」
「あ、わかる。あたし絶対やだな」
「さっきの時間も、なんか嫌味っぽくなかった? 手伝うって言ってんのに、一人でどんどん勝手に進めてるし。自分だけが正しいと思ってるんだよ」
「まあ、その分あたしたちは楽できるしいいじゃん」
話はそれから、担任の教師の愚痴へと転じた。ひとしきり喋ったあと、新野さんが言った。
「ねえ、帰りアイス食べてこ」
「いいね。今日暑かったし」
わたしはあわてて、階段の陰にしゃがみこんだ。トイレから出てきた三人は、下足場の方へ歩いていった。廊下中にひびきわたる喋り声が、どんどん遠のいてゆく。やがてあたりは、何事もなかったかのように静まり返った。
わたしはふらふらと立ちあがって、トイレに足を踏み入れた。短くくねった通路の先には、ぽっかりとあかるい、白い空間がひろがっていた。ヘアオイルの、あまい匂い。洗面台に付着した、色つきリップ。さっきまでいた三人の声までもが、まだ宙に漂っているようだった。
つきあたりの大きな鏡に、自分の姿が映っている。校則どおり、高く結った長い髪。ほそい二重瞼。うすい唇。前髪の下の額には、つぶしたにきびの痕が点々とのこっている。
「わたしは、可哀そうなんかじゃない」
声にだして、そうつぶやいてみる。
勉強は、内申は、わたしの未来にまっすぐつながっている。正しく、意味のあることだ。あんな無責任な言葉、気にする必要なんかない。
前髪をかきわけると、無数の傷口が、クレーターのように醜くひらいていた。いちばんおおきな傷をよくみてみると、赤く毛羽立った皮膚のまんなかに、脂肪の粒を抜き取ったあとの穴がぶっつりとあいている。
わたしが積みあげてきた膨大な時間は、努力は、彼女たちにとっては何の意味もない、ただのあわれみの対象かもしれない。けれど、それがなんだ、と思う。わたしは正しい。まちがっているのは、あの人たちの方だ。
だって、そうじゃないなら、わたしは何のためにここまで頑張ってきたのだろう。
ずきん、とふいにおなかが疼く。額の傷口にふれると、透明な体液がじわりと湧きだして、ゆびさきをわずかに濡らした。
*
どこか遠くで、水の音がきこえる。
耳をすませると、それはわたしの体のなかからひびいているようだった。音は、どんどん大きくなる。同時にわたしの体も、みるみるうちにふくらんで、巨きくひろがってゆく。髪は森に、眼球は湖に、鼻腔は洞窟に。にきびはいびつなカルデラと化し、手足はうねるような山脈になる。
皮膚はくずれて土となり、その下、血管のなかを、ごうごうと音をたてて、地下水がながれてゆく。水はやがて熱をおび、束になり、ふくれ、うずまき、泡立ちながら、ゆっくりと勢いをましてゆく。
これが夢だということに、そしてもう何度も見てきた光景だということに、わたしは気づく。朝には消えてしまう、今この瞬間だけの光景。
いつしか、水は滾るような熱湯にかわっていた。まるでひとつの生きものみたいに暴れ狂いながら、耳、鼻、毛穴、全身のありとあらゆる穴から、膿のようにほとばしる。この疼くような烈しい感覚をなんと呼ぶのか、わたしは知っている。痛みでも痒みでもない、甘怠い疼きの名前が、いまのわたしにはわかる。
ああ。もうすぐだ。
もうすぐ、夢が現実にあふれだす。
この疼きは、きっとすべてを破壊する。
震えるほどの期待に、わたしは恍惚と目を閉じる。
★次回 第5話はこちら
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館