佐々木莉佳子と巡る地元・気仙沼。震災後の人の心を支えた「気仙沼ブルー」

CanCam専属モデル・佐々木莉佳子が、今年も生まれ育った出身地・宮城県気仙沼市に帰ってきました!

「みなと気仙沼大使」として地元の観光大使を務め、気仙沼をこよなく愛する莉佳子。ゆったりと流れる空気、あたたかい人たち、美しい風景、美味しいもの。終始ニコニコ楽しそうなその表情からも、どれだけ素敵な場所かが伝わってきます。

 

2011年に発生した東日本大震災からまもなく13年が経とうとする今、復興は進み、また新たに歩みを進めています。
歴史と新しさが共存する街は、旅に訪れても写真に残したくなるような場所ばかり。
少しだけ莉佳子とともにお散歩しながら、気仙沼の街を見ていきましょう。


気仙沼駅や高速バス乗り場からもアクセスしやすい、気仙沼の中心地・内湾エリア。潮風を感じながら歩いているだけでも気分はウキウキ!「お魚いちば」や、おみやげ屋さんなどがある「海の市」など、観光スポットが集まっています。
(※記事後半でもレトロかわいい喫茶店を紹介します!)

そんな莉佳子とめぐる気仙沼散歩、今回の目的地は…「インディゴ気仙沼」。ファッションを通して街の人々を元気づけ、気仙沼の女性たちの課題を解決し続けてきた藍染工房です。

▼インディゴ気仙沼って、どんな会社?

花王が特別協賛する「ネクストとうほくアクション」という、東北のみなさんとともに未来を考え、未来につながる活動を推進していく取り組み。今回はその一環として、現地に縁が深い大学生の皆さんと共に、CanCamがピックアップした東北の素敵な企業を紹介していきます! 気仙沼(宮城)、盛岡(岩手)、そして南相馬(福島)をめぐる全3回の連載の初回に訪れたのは「インディゴ気仙沼」。

インディゴの原料となる藍の栽培、顔料の抽出、染料づくり、染色を一貫して行い、畑から手渡しできる距離感で、安全性と心地よさを大切にものづくりを行い届けています。

気仙沼の海を象徴するような、天然インディゴで染められた美しいブルーのストールやTシャツが人気です。莉佳子着用のストールのターコイズブルーは、「緑の真珠」と言われる、気仙沼・大島の海の色に見立てたもの。染料となる藍を、気仙沼の畑で自らの手で育て上げています。

コットンに、竹からとれる繊維をごくわずかに混ぜた生地で作られたストール。軽く、しっとりと柔らかな手触りが特徴。天然インディゴには抗菌作用やUVカット作用、保温性など美しさだけでない実用性も備えています。


そんなこだわりのものづくりを行う会社を立ち上げた藤村さやかさんのお話を、莉佳子と、宮城県内の大学生・門間さんとともにうかがいます。

▼今回お話するのは…

左:宮城学院女子大学4年 門間由芽奈さん
2001年、宮城県仙台市生まれ、秋田県秋田市出身。転勤族の家族のもとで育ち、秋田県・岩手県・宮城県と転々としながら育ったことをきっかけに、大学で地域創生イベントやコミュニティづくりに携わる。来春から通信業界にて、ICT技術を活用した地域の課題解決に関する会社に就職予定。

中:インディゴ気仙沼代表 藤村さやかさん
1979年、アメリカ生まれ。IT企業での営業を経て、28歳で食のPR会社を起業。6年経営後、結婚を機に気仙沼市に移住。第1子出産後、育児中の女性たちの雇用創出をすべく「インディゴ気仙沼」を立ち上げる。

右:CanCam専属モデル 佐々木莉佳子
2001年、宮城県気仙沼市生まれ。震災を機に立ち上げられた気仙沼のご当地アイドル「SCK GIRLS」を経て、現在はハロー!プロジェクト内の女性グループ・アンジュルムのメンバーとして活動。みなと気仙沼大使として、気仙沼の魅力を広める。

ファッションは人の生きる糧。「色のない街」に見えた、震災当時の気仙沼

インディゴ気仙沼に到着すると、藤村さんが畑で作られた藍のお茶を出してくれました。「板藍根」として漢方の原料としても使われ、台湾などでは日常的に飲まれているお茶。香ばしさも魅力で、たとえるなら「とうもろこし茶」に近い風味。莉佳子も「美味しい!」と飲んでいました。


インディゴ気仙沼の工房が入っているのは、昭和8年に造られた歴史ある建物。もともと味噌や醤油の製造元「平野本店」としてスタートした、重厚なたたずまいの古民家です。

藤村さん 私は11歳までアメリカに住んでいたこともあり、古民家がセクシーに感じられて。この建物が空き家になっていると知って、ぜひ、とお話を進めて工房として入居しました。

莉佳子 セクシー! 私にとっては日常の景色だったので、輝いて見えるのが羨ましい。街の見方が変わって面白いです…!

門間さん 神棚がすごく大きいのが特徴的ですよね、私、この形初めて見ました。

莉佳子 気仙沼の一軒家だとこのくらいのサイズの家が多いかも…じいちゃんばあちゃんの家も同じような神棚があったから、「あぁ、落ち着くなぁ〜」と思いました。


―門間さんは、気仙沼に来たのは今回が初めてですか?

門間さん いえ、震災があった街がどうなっているのか、この目で見て知りたくて、2012年〜2013年くらいに、家族と来ました。当時小学生の子どもながらに震災の物凄さを目の当たりにして驚いた記憶があります。今日は約10年ぶりに来たのですが、気仙沼が明るい街になったのを感じました。

莉佳子 特に震災の1〜2年後と現在だと、全然違いますよね。私は震災前の気仙沼も、今もめっちゃ好きです。見た目が変わろうと、変わらないものは絶対にある。それに、震災があったことで新しく生まれるものが増えました。これまでなかった橋がかかったり、仙台から気仙沼まで早く行ける高速道路ができて、1時間短縮して行けるようになったり…。大きなきっかけがないと作れなかったと思うので、マイナスなことだけじゃないな、と思います。

 

―藤村さんの目から見ると、気仙沼の変化はどうでしょうか?

藤村さん そうですね…私たちに求められるものも、復興と同時に少しずつ変わっていきました。会社として、藍による染色サービスを提供しているのですが、震災から2〜3年経ち、少しずつ皆さんの心の整理がついてきたタイミングで「遺品を染めてほしい」という依頼を多く受けました。「ヘドロの中から見つかった遺品が、何度洗っても汚れが取れない。藍で染めることで、もう一度蘇らせることができるんじゃないか」と。「もしよければ、一緒に染めてみませんか」と提案をして。きれいに藍で染まったご遺品を見て「本人も喜んでいる気がします」という声や、藍染したご遺品の帽子を身につける姿…さまざまな光景を見ました。

藤村さん 震災から4〜5年経つと、仮設住宅から、一般的なマンションと同じような「災害公営住宅」に移る方が増え始め、そのタイミングでストールをお買い求めに来るお客さんが増えました。お話をうかがうと、仮設住宅にいる間は、みんな息をひそめて暮らして、人様の目がある手前、キレイな格好もしづらい。そう思って暮らしていた方に「でも私ね、おしゃれ大好きなの。災害公営住宅に移ることになったから、ようやく好きな色を身につけられる! インディゴさんのストールがずっと欲しいと思っていたから、買いに来たのよ」と言われて、ハッとしたり…。

藤村さん 私が2013年に初めて来て、縁あって嫁いだ気仙沼の南町は、6mの津波が来た地区です。当時のその地区は、ヘドロをかぶって、残った建物もどこか灰色がかっていて、看板もねじれ、でもそれを直すお金もなかった。「色がない街だな…」というのが当時の印象です。けれど、復興が進むにつれて新しい建物ができて、そこに色が乗って。人もファッションで色を取り入れるようになって。「あぁ、生きるのに、色って必要なんだ」と思いました。

莉佳子 ……それ、まさに思っていたことです。震災があった当時の気仙沼を見ているので、帰ってくるたびに色が増えてると思って…。藤村さんのその言葉、しっくりきました。

運命の出会い→結婚→移住から始まった、「女性たちがきちんと稼げる場所を作りたい」


―藤村さんは結婚を機に気仙沼に移住したとうかがいましたが、まず移住から起業までの流れをお話いただけますか?

藤村さん はい、28歳のとき東京で食のPR関連の会社を起業し、6年経営したところで「やりたいことはやりきった」と感じて。34歳、次に何をしたいか考えたら「結婚して、子どもを授かりたい」でした。2013年に訪れた気仙沼で、飲食店で隣り合わせた方と偶然の出会いがあって「お付き合いしてください」ではなく、「結婚してください」から始まって、とんとんと…(笑)。「東京でやりたいことを全部やりきって、20年後に俺のところに来てくれるのでもいい」と言ってくれたのですが、移住を決意して、事業譲渡し、籍を入れすぐに子どもを授かりました。

莉佳子 新しい…! 気仙沼に引っ越してきて、どうでしたか?

藤村さん 震災復興真っ只中の気仙沼は、産業再建や宅地整備などの事業から優先的に施策が進められていて、子ども向け施策がほとんどない状況でした。「ここで子育てをするのは工夫が必要だ」と、被害が少なかった市外に引っ越していった家族も多く、子育て支援施設も閉鎖が相次ぎ、子どもを遊ばせる場所も減っていく…。車社会で歩いている人も少ない。それでもどうしても知り合いを作りたくて、街中で子連れのママさんを見かけたら「引っ越してきたばかりなんですけど、お話しませんか」と、話しかけていました(笑)。

莉佳子 すごい!

藤村さん 最初は3人程の繋がりから広がっていって、いわゆる子育てサークルができました。「震災をきっかけにおむつ替えができる場所も授乳場所も変わったので、マップがほしい」「リフレッシュできる場がほしい」とアイディアを出し合い、託児つきでママと子ども向けのイベントを年80回ほど開催して。ありがたいことに次第に行政からも声がかかるようになりました。「新しい市立病院を作るにあたり、子育て層が利用しやすい病院にするため、病院関係者との座談会をしませんか」など、市長に直接困っていることを訴える場所を作ったり。

莉佳子 めっちゃすごい…(拍手)。

藤村さん でも、ふと「ママのリフレッシュ企画をこのままやり続けるのかな?」という話になったとき「いや、私たちが困っているのって、いちばんは稼ぐ場所だよね」という話になりました。気仙沼に来てリアルに実感した課題が、賃金格差です。私、ずっと自分のお金は自分で稼いでいたし、そのあたりのことを調べたり準備したりすることなく、住む地域を変えてしまったんです。が、移住してからいざ調べてみると、当時は宮城県全体で「40代共働き夫婦の平均世帯収入が25万円」という県のデータがあって。「車検のお金がない、キャッシングに頼ろうか」「家電が故障したけれど買い替えられない、譲ってもらえないだろうか」という話をしょっちゅう聞き、カルチャーショックを受けたのを覚えています。


―藤村さん自身もやはりその問題に直面することがあったのでしょうか。

藤村さん 創業する前には、就職の道を探っていた時期があります。会社訪問をする中で、どうしても壁を感じたことはありました。8年も前のことなので、今は状況も違っていると思いますが、提示された給与が押しなべて額面13万円、手取りで8万円でした。35歳中途であっても、女性の場合、これまで培ってきた経験を活かせる雇用の仕組みがない。地方ではその仕組みを今から創る必要があるのだと、構造的な課題が見えた瞬間でした。当時の気仙沼では、女性が働く選択肢は水産加工会社や飲食店、パソコンスキルがあれば人気の事務。それでも事務職は求職者に比べて求人数は少なく、ミスマッチがたびたびニュースになっていました。都心部にいた頃は、仕事やお金、情報、人脈に、息をするくらい自然にリーチできていた。でも、地方、その中でも被災地となると、生きていく上での選択肢はどうしても少ない。ここでは何もかも自分たちで作る必要がありました。子ども向けの施策も、子育てする親たちへの施策も十分に整っていない環境の中で「子育てをしながら、きちんとお金を持って帰れる職場を、当事者の自分たちが作るしかない」と、ママ3人で話し合ったのがインディゴ気仙沼の始まりです。

門間さん 仕事を始める上で「インディゴ」を選んだ理由は何ですか?

藤村さん まず、子育て中の女性が、少ない時間を持ち寄ってお金を稼ぐのであれば、粗利率が高い仕事にしないといけない。薄利多売の道を選ぶと、現場が消耗してしまいます。単価が高いものを、希少性を持たせて、ブランディングして売るのがこの地域に合っているのではないかと仮説を立てました。「気仙沼ならでは」ということで、まず思いついたのが海。そして、海といえば青。「ブルー」を想起しやすい街です。

門間さん 確かに!

藤村さん 始めるなら、10〜20年やって「いや〜楽しかったね」と解散するプランは、私たちの頭にありませんでした。「藍染め」は、100年前にもあって、今も存在する仕事で、創意工夫次第では100年後に気仙沼に定着する産業になりうること。そして何より、経験がない方でも、3か月ほどの研修期間を経れば続けていける「手しごと」であったこと。もうひとついいことがあって。最初に私が藍染体験をしてみたときのことです。生後5か月になる息子をおぶったまま染めていたら、ちょうど眠くなる動きだったのか、すぐに寝たんです。仕事が子守りになるなんて一石二鳥、こんなにお得な話はないと。また、アメリカで育った身としてはと、東北地方は謎めいた神秘的な地域。その中でも港町である気仙沼で、女性たちがオーガニックの染料を使って生み出す藍染めがとても魅力的で、マーケティング次第では市場に参入できるかもと思うようになりました。

莉佳子 さっき午前中に藍畑に行かせていただいたんですが、みなさんで育てた藍を使って藍染のアパレルを作ってらっしゃるんですよね。

藤村さん はい、パステルという希少な染料植物を自社栽培しています。最初は、日本の藍染で主に使われている「タデ藍」という品種を試験栽培をしてみました。ところが、温暖な気候を好む植物ということもあり、気仙沼の夏は短すぎてうまくいきませんでした。そこで、気象学の専門家である友人に気仙沼に来てもらって「気仙沼の気候は、何か特殊な気がするんだけど、どうかな?」と聞いてみたところ、本当にスポット的に、すぐ近くの大船渡や陸前高田とはまた違う気候をしているかもしれないと。では地球上のどこに似ているのかというと、なんと気仙沼はヨーロッパの「西岸海洋性気候」に近いと教えてもらいました。

莉佳子 え、ヨーロッパ!

藤村さん はい。ただ、現代のインディゴ産業がどこで栄えているかを調べてみると、赤道直下の暑いところや、温暖な気候に恵まれている地域が多かったんですね。そうなると、寒冷な気候の気仙沼は、藍染めをやろうとすると、条件的に不利になってしまいます。、いろいろな方に相談しているうちに「地理的に探してピンとこなければ、時代をさかのぼってみたら?」と。そこで歴史書を紐解いてみると、中世のヨーロッパで、寒い気候を好む藍「パステル」が一世を風靡した時期があることを知りました。

門間さん その発想が素晴らしいです…。

藤村さん 現代でも、天然の青色色素を得られるのは、植物や鉱物などすべてひっくるめ、両手に足りる数しか発見されていないと言われています。中世のヨーロッパでは、「パステル」が発見される前までは、宝石の「ラピスラズリ」を削って染めるしか「青」を出す方法はありませんでいた。そのため青は、ごく一部の高貴な方しか着られない憧れの色だったそうです。それが、パステルを使えば薄いブルーが出るという画期的な方法が発見され、ヨーロッパ中に広まりました。聖母マリアの絵画といえば、ブルーの服を着たものをイメージされるかと思いますが、パステル発見前までは茜の根っこを用いて色をつけた、えんじ色の服をまとっていました。それがパステル発見後にブルーに変わるほど、歴史を変えた色と言われています。けれど大航海時代が始まると、船の航行をきっかけに、とても簡単に濃い青を出せる「インド藍」がヨーロッパにもたらされ、薄いブルーの「パステル」は、いつしか忘れ去られていきました。


藤村さん 忘れ去られ、栽培や顔料の抽出資料もほぼ残っておらず、「幻の染料植物」とも呼ばれるようになったパステルについて調べているうちに、フランスのトゥールーズという土地に、数粒だけ保存されていたパステルの種を譲り受け、育てて増やしている地域があることを知りました。そこである方にご紹介いただき、私たちの想いを伝えて交渉。2016年冬、パステルの種を譲り受けることができました。その後、古い文献を紐解きながらパステルの育て方を試行錯誤し、色素をより多く出せるように品種改良をしていきました。日本国内の商業栽培例としては初で、今は自社農場で種子も自家採取していますので、すべて国産の種に切り替えました。

染めたストールを乾かしているところ。手前にある薄いブルーがパステルで染められたもの。1枚1枚手染めのため、近寄ってみると色の濃淡が少しずつ異なる、味わい深い美しさです。

門間さん 今ここにこれがあるのが奇跡的ですね…!

藤村さん 「パステルを自分たちが持ってきた」とは思っていないんです。パステルが自分の意思でここにやってきたような、そんな感じがしています。「気仙沼産」の藍にこだわっているのにも理由があって、「原材料表示」できるアパレルを作りたかったんです。「母として、子どもも大人も安心して着られるアパレルを手がけたい」。それがインディゴ気仙沼の大事なアイデンティティーです。化学的なものは使用せず、天然の原材料のみを使って染料を建てています。

インディゴ気仙沼の定番人気商品、ストール。真ん中の淡いブルーが、パステルの顔料で染めたもの。他のストールはインド藍やタデ藍を使い、ブレンドもすることでさまざまな色を生み出しています。

実際に畑で育てられているパステルの葉。

「ここからあの色が出るなんて…」と莉佳子も興味津々。撮影が終わったあとにスタッフが葉を預かろうとしたら「ううん、持ってる」と、畑を離れるまで葉を離さないほど気になった様子。


葉から抽出された気仙沼ブルーの顔料。



100年後までずっと、女性たちが働きやすい職場にするために。


―「子育て中の女性が、きちんとお金を持って帰れる仕事を」ということで、働きやすさに気を配っているかと思いますが、そのあたりの話もうかがえますか?

藤村さん これまで38名の女性を雇用してきましたが、働く方のライフステージによって希望の働き方は変わるので、職種や雇用形態を意識して揃えています。正社員雇用の方がお子さんを授かったのを機に「自宅でできる縫製の仕事がしたい」と言われたら、そこで外注に切り替える。子どもが大きくなってきたら「週に何回か通いのパートで、染めをやりましょうか」と変える。

門間さん いろいろな働き方があると、管理が大変ではないですか?

藤村さん 労務は確かに大変です。ただ、「50年後、100年後にも、女性がきちんとお金を持って帰れる仕組みを作ること」に興味があるので、女性に選んでいただく企業になるためには、女性たちの事情に合わせて会社を作っていく必要があります。とはいえ、働き続けたいとご本人が思っていても、家業の手伝いに入ったり、親御さんの介護が始まったり、「家族のケア労働者」としての役割を女性たちがまだ期待されているのを感じていて。ライフステージが変わったときに離職せず、インディゴ気仙沼との接点を持ち続けてもらうにはどうしたらいいのか…そこは新たな課題としてとらえています。

門間さん そうやってみなさんを思いやっていると、たくさん人が応募してくるのではないかと思いますが、採用するときはどんなポイントを見ていますか?

藤村さん 自分が40代になって改めて思うのは「柔軟性」が大事だということ。改善点を絶えず自分で見つけられるか、誰かに指摘されたときに突っぱねずに変わっていける柔軟性があるか。年を重ねるほどに「柔らかさ」はいろいろな場面で必要になると感じるので、重視しています。

莉佳子 …わかります! 私もちっちゃい頃からお仕事しているんですけど、中高生くらいの時期に、明確にやりたいことがあって、こだわりが強くて、周りの声が入ってこない時期があったんです。指摘されても「私はこうだから」って跳ね飛ばして…。でも、生きていく中で、誰かの指摘を聞いてみることって大事だなって…大人の方から聞くと響きます。

藤村さん そう、私も「あ、この人、私に何も言わなくなったな」という経験をしてきていますし、よく言われることなんですけど、誰かにご指摘いただいているうちが華なんだと思います。

莉佳子 間違いない。

藤村さん 私自身、経営者である今も「なんでも言ってほしいです」という雰囲気は出せるように心がけています。でも、逆のことを言うようで申し訳ないのですが「人に言われたことを全部受け止めすぎなくてもいい」ということも同じくらい大事だと感じています。人の指摘をすぐ突っぱねるのはもったいないけど、一度受け入れてから「その人から見たらそう見えるんだな」と、放出していいものもあるのではないかと。

門間さん 私も来年の春に就職するので、その姿勢を大事にしたいです…!

莉佳子 「一回受け入れる」って大事ですよね。私も今はいい意味で、自分の中のこだわりを崩せるようになりました。自分が気づかないことを気づかせてくれる周りの声って、すごく貴重。

 ―「働きやすさ」に関連して、インディゴ気仙沼さんが今の場所に引っ越す前は、会社に広いキッズスペースがあったとうかがいました。

藤村さん ガラス張りの物件だったので、12畳程度の空間をキッズスペースにして、子連れ出勤をしてもらっていました。これもやってみたら、興味深いことが起きました。私が出産した年、気仙沼では360人程の子どもが生まれましたが、0歳児を受け入れてくれる保育所は数か所、定員は数名ずつ。そんな状況だったので、子連れで働けるのはマストでした。さらに、震災を機に、それまで三世帯・四世帯同居が当たり前だったのが、仮設住宅で世帯ごとに分かれるなど、気仙沼では核家族が爆発的に増えて。それまでは母親が働きに出ている間は祖父母が子供の世話をすることも多かったのですが、それができる環境ではなくなった。そんな状況下で、外から見えるキッズスペースを作ったら…「あら〜かわいいごど〜!」って、おばあちゃんたちが寄ってくるようになったんです。

莉佳子 「めんこいね〜♡」って。

藤村さん そうです(笑)。おばあちゃんたちにとってみたら「遠方の孫には年に2回しか会えなくて寂しい。でも、いつでも会いにいける子どもが近所にいる」といううれしさがあったようです。「孫さ会いに来たよ〜」のテンションで、「私たちが見てるから、あんたたち仕事してらいん」と見てくれるようになって。職場に地域コミュニティができました。これまで育児の悩みはネットが頼りだったけれど、おばあちゃん世代から話を聞けるようになりました。さらに「土地探してるの? じゃあうちはどう?」と、アクセスするのが難しかった情報もご縁で手に入るようになるなど、人の繋がりの重要性を知りました。さらには「年金で生活はできるけど、孫が来たときに交通費を渡せるくらいの、あと月に2〜3万円がほしい。でも年齢不問と書いてある求人に電話すると、結局年齢を理由に断られやすい」ということも判明。そこからパートタイムで60代以上の方も積極的に採用するきっかけにもなりました。

藤村さん するとどうなったか…みなさん、染めてる時間より笑ってる時間のほうが長いんじゃないか、というくらい楽しそうに働かれています。お給金をお渡しすると、それが仮に3万円だったとして「息子に何か贈りたいので、藍染め製品で2万円で買えるものをください」と言ってくださるほど、職場を愛してくれていて。通える職場があって、いつものコミュニティとは違う人と話ができて、切磋琢磨しながらお客様に喜んでもらえるように頑張って、その結果お金がもらえて「あぁ、楽しかった!」と。これが気仙沼だからなのかわからないですが、地方でやっていく事業だからこその関わり方なのかもしれない、とは思います。


―「あぁ、気仙沼っぽいかも」と思いますか?

莉佳子 私は気仙沼が大好きなのでさらにそう感じるかもしれないけど、確かに「気仙沼ならではかも」とは思います! 東京は便利な街だけど、地方のほうが人の関わりを大事にしていて、なんでもうまくまわる場所じゃないからこそできることもあるなと。私が気仙沼に住んでいたのは小学生までなので、知らないこともたくさんあるんですが、こうやって地元でお仕事させていただくたびに、改めて素敵な場所だな、私も気仙沼にいたいな…と、より大好きになります。

藤村さん 佐々木さんは私たちのホープなのでこれからも応援しています!


 

東北の未来、気仙沼の未来に向かって

―改めて、インディゴ気仙沼さんが復興の中でやってきたことを教えてください。

藤村さん 最初の話に戻りますが、私たちインディゴ気仙沼が復興の中でやってこれたことは、微力ながら誰かの心のしんどさを取って、生きやすさをプラスしていく…そういうことなのかな、と思います。ファッションって、「生活に必要なもの」じゃなくて、趣味や嗜好品で贅沢だという捉え方をされることも多いですよね。でも私は「藍で染め直されたご遺品を見て、いつも故人を身近に感じられると喜んだ方」や、「仮設から災害公営住宅に移るタイミングで、やっとおしゃれができるときれいな色のストールを買い求めにきた方」などを見届けてきた経験を経て、ファッションこそ人の生きる糧であり、復活の証。色で自分を守ることも、表現することも、未来を見ることもできる、とても大事な要素なんだな、と思うようになりました。

莉佳子 私が普段思っていることと同じ…共感しながら聞いちゃいました。ずっと話してたい…。服は自分を強く見せてくれるし、ありのままの自分を見せていいんだと思わせてくれるものでもあるし、それこそ自分を表現するもの。常にそう思ってるから嬉しいです…。みんなもっと自由にファッションを楽しんでほしいし、生きたいように生きてほしいって思います。

門間さん つい「似合う服を着るべきなのかな」と思う癖があって、来年社会人になったら着られない服も増えちゃうのかな? と思っていたのですが、改めて仕事もファッションも楽しんでいきたいなと思いました。

藤村さん ちなみに、どんなお仕事をされるんですか?

門間さん 通信業界で地方創生関連のセールスをしたいと思っています。私は特に農業分野に興味があるので、農業分野における課題をITの力で解決しようと。祖父母が仙台市内で農業をやっていて、小さいときからよく手伝っていたので、子どもの頃からずっと興味がありました。

藤村さん すごい! 今、農業はITによる発展の伸びしろが大きいですものね。私も東京にいたときは憧れのシティガールになりたくて、「できるだけ山手線に近づきたい!」と、恵比寿で会社をやって、代官山に住んで、ファッションを楽しんで、すっごい短いスカートを履いて、バーで飲んで…という感じで、そのときの写真はとても見せられません(笑)。当時を知っている友人は「気仙沼に移って、今草刈りしてるとか信じられない!」と最初は疑っていましたが、東京から会いにきてくれる友達には、それはもう誇りを持って「田舎、楽しいでしょ?」と言っているくらい、心から楽しんでいます。

莉佳子 私も、農業大好きなんです…。今朝、藍の畑に行かせていただいたときも、ワクワクしちゃって! 私が所属しているハロー!プロジェクトでも「SATOYAMA & SATOUMI movement」という、様々な地域の里山と里海、自然や農業にまつわる活動をしているんですが、生き物も緑もお花も大好きだし、小さい頃から自然に囲まれて育ってきたから、もっとそういうことに関われたらな、と思うんです。


 
―それでは最後に、これから東北の未来のためにやっていきたいことを教えてください。

門間さん 私はスペシャリストになりたいです。やりたいことが農業分野なので、農業関連か…何か特定の分野を続けることって、途中で飽きてしまうこともあり難しいなと思うので、ひとつのことを続けてプロフェッショナルになりたい。それが今、目指す将来図です。

莉佳子 かっこいいー! 私は気仙沼が大好きだからこそ、欲張りにいいところを全部伝えていきたい。今日、改めて気仙沼の人と人の繋がりにまつわる話をたくさん聞けたので、そんな人のあたたかさがある街なんだよ、ということも発信していけたらいいなぁ、と思います。気仙沼に行ってみたい、と思ってもらえるような活動をこれからもしていけたらいいな、頑張ります!

藤村さん 私はあまり大それたことは考えていないけれど、ただただ、私たちがやっている藍染を50年後、100年後に残していきたいということ。多様な生き方をする気仙沼の人が、それぞれのライフステージに合わせて稼げる仕組みを残すことが目標です。私が死んだあとに天国から気仙沼を覗いたら、青い手をした女の人たちが気仙沼でいきいきと働いていて、生活できるだけのお金を持って帰って、子どもの選択肢を増やすことができる。始めた当初と同じく、半径1メートルにいる女性たちの困りごとを、どうしたら解決していけるか…。それが根本です。その課題抽出とちいさな解決の先に未来があると思っているので、芯は変えずにやっていきたいです。

藤村さんの手や爪は、藍染の青い色に染まっているのがとても印象的でした。


 たくさんのお話、ありがとうございました!

50年後、100年後も見据えて日々の仕事に取り組んでいくインディゴ気仙沼。柔らかい風合いと美しい色のストールは、取材当日に触れただけでもその質の良さに感動。気仙沼市の雑貨店や、仙台市の藤崎百貨店にて常時取扱中。イベントにも多数出店しているそうなので、ぜひ実際に触れてみてくださいね。

インディゴ気仙沼 公式サイト

▼気仙沼に行ったら訪れたい、震災から復活したレトロ喫茶店


莉佳子と気仙沼お散歩の最後にまったりタイム。気仙沼といえばやっぱり美味しい海鮮のイメージがありますが、くつろげるかわいいカフェなども揃っています。

たとえばこちら、内湾エリアからほど近い場所にある、美しいステンドグラスに囲まれてゆったりと過ごせる喫茶マンボ。実は津波によって全壊してしまったものの、泥に埋まっていた1枚のステンドグラスから内装を復活させた物語を持っています。

階上産の気仙沼いちごを使った、春の旬にだけ食べられる季節限定の「いちごババロア」が有名なお店。ですが、最近、同じく気仙沼のいちごをたっぷり使ったジャムと、地元で人気のベーカリー・ブリアンとコラボした「いちごトースト」がデビューしたばかり。莉佳子も大好きな気仙沼いちごを、1年を通して楽しめます♡(かなりボリューミーでしたが、撮影の日も「美味しい!」とペロリと食べきっていました)

喫茶マンボ  気仙沼市南町1-4-1


気仙沼へのアクセスは、仙台駅から高速バスが1日数本出ているほか、東北新幹線一ノ関駅から乗り換えてJR大船渡線で行くことができます。数々の素敵なものが生み出され、ゆっくりと時間が流れる穏やかな港町、そして莉佳子が愛する地元、気仙沼。ぜひ次の旅行計画にも入れてみてくださいね!

What’s「ネクストとうほくアクション」?

花王が支援する取り組みで、東北の3つの新聞社である岩手日報、河北新報、福島民報が手を取り合って、東北の皆さんとともに未来を考え、未来につながる活動を推進していく取り組み。現地の高校生・大学生とともに行うプロジェクトや東北に花を咲かせるプロジェクトなど、さまざまな取り組みを行っています。
公式サイト https://smile-tohoku.jp/

協力/花王グループカスタマーマーケティング株式会社

(莉佳子衣装)コート¥22,000(ゲストリスト)、スエット¥7,150・スカート¥8,800・マフラー¥7,700(Ungrid)、中に着たプルオーバー¥9,900(NAVE/オンワード樫山)、ピアス¥18,700(ズットホリック<バルブス>)、靴/スタイリスト私物

撮影/安川結子 スタイリスト/奥富思誉里 ヘア&メイク/MAKI モデル/佐々木莉佳子(本誌専属) 構成/後藤香織