人生、何が起きるかわからない。電力会社志望→震災を機に福島県に移住。35歳で町の議員になった女性の話|富岡町議会議員 辺見珠美さん

花王が特別協賛する「ネクストとうほくアクション」という、東北のみなさんとともに未来を考え、未来につながる活動を支援していく取り組みをご存知ですか?
CanCam.jpではそのプロジェクトの一環で、宮城・岩手・福島の沿岸エリアで地元のために力を尽くし活躍する女性たちをピックアップし、ご紹介するプチ連載をお届けしています。

第1回は、CanCam専属モデルの佐々木莉佳子が、地元である宮城県気仙沼市へ。かつて莉佳子も所属した気仙沼のご当地アイドル、SCK GIRLSの3代目リーダーを務めながら気仙沼市役所の観光課で働く鈴木麻莉夏さん。
第2回は、岩手県釜石市で「まちの人事部」として、働きたい人と企業を繋げるパソナ東北創生の代表を務める、戸塚絵梨子さん。

ラストとなる第3回は、福島県双葉郡富岡町へ。福島第一原発・第二原発を擁する双葉郡にある富岡町は、福島第一原子力発電所事故の影響で、約6年もの間、避難指示区域に指定され、町民全員が避難を選ばざるを得なかった町。
そこには、35歳の女性議員がいます。震災を機に福島へ移住、双葉郡のいくつかの町村でまちおこしに関わるさまざまな活動を行なったあと、一念発起して2024年の富岡町議会議員選挙に立候補し、当選。

東京で生まれ育ち富岡町で活躍する辺見珠美さんのお話を、横浜で生まれ育ち、現在は福島大学に通う大学生、久延めいさんとともにうかがいました。

▼今回お話をするのは…


富岡町議会議員 辺見珠美さん
東京都出身。大学時代は原子力と放射線について研究。東日本大震災後、岩手や福島でボランティア。福島大学の放射線にまつわる職員募集に採用され、福島県双葉郡川内村へ移住。その後川内村を盛り上げる「ふくしま盛り上げっ課」の立ち上げや、双葉郡のインフォメーションセンター「ふたばいんふぉ」、富岡町のまちづくり会社「一般社団法人とみおかプラス」で移住関連の仕事など複数の活動を経て、現職。議員の他、とみおかこども食堂実行委員会、障がい者ピアサロン「きゃべつの葉っぱ」運営など、手広く活動。美味しいものが好きで、作るのも食べるのも好き。最近のちょっとした悩みは、引っ越しの荷物の中からボウルがなぜか出てこないこと。

福島大学共生システム理工学類4年 久延めいさん
神奈川県出身。大学進学を機に福島へ。卒業後は大学院に進学予定。

原子力で人の役に立ちたかった学生時代 禊のような気持ちで福島へ

―本日はよろしくお願いします。辺見さんが福島のためにさまざまな形で尽力されている活動を拝見して取材をお願いしたのですが、もともと、学生時代からいろいろと活動的な方だったのでしょうか?

辺見さん いえ、全然です(笑)。大学3年生が終わろうとする春、まさに就活期間中に東日本大震災が起きるまでは、バイトとギャンブルに明け暮れるような学生生活を送っていました。それが変わったのは…やっぱり、震災、そして原発事故が、あまりに衝撃的だったから。実は私…就職先の第一志望は、東京電力でした。

―それは…衝撃ですね。

辺見さん 事故が起きる約1か月前、2月15日に、就活生用の見学会で福島第一原発に行ったばかり。エントリーシート締切日の3月12日に事故が起きて、ついこの間見たばかりの場所がニュースで報道され…そのまま、その年の募集はなくなりました。東京の大学で原子力と放射線を研究して、どれだけ人に役立てていけるか考える人生をやっていこうと思っていたので、あの事故はあまりにショッキングでした。どうしても人ごととは思えず、禊のような気持ちで、何か私のこの知識が役に立てないかと思っていました。すると、6月に福島県内の放射線測定ボランティアの要請が大学の研究室に来て、それで福島に行ったのが始まりです。その後東京に戻り、富岡町から東京に避難してきた子どもたちの学習支援のボランティアに参加するようになったご縁で「もっと富岡町の現地で役に立てることはないか」と、大学を卒業した2012年、現地の求人を探しました。

―そこから福島県に移住するまでは、どういう流れだったのでしょうか?

辺見さん 富岡町の公式サイトを見てみると、まず2012年当時は、富岡は町全体が警戒区域で立ち入り禁止。けれど、お隣の川内村に、ちょうど福島大学のサテライト「うつくしまふくしま未来支援センターいわき・双葉地域支援サテライト」ができて、放射線担当職員を募集していることを発見しました。でも、締切がなんと翌日。2012年の8月下旬に急いで書類を送って、9月7日に面接して、その後すぐに採用決定をいただきました。

―運命的ですね!

辺見さん 10月に福島へ生活の拠点を移し、2か月間車の教習所と福島大学の研究室に通う生活をした後、12月から川内村に着任しました。

―2012年当時の川内村は、どのような状況だったのでしょうか。

辺見さん 川内村と富岡町の間には、警戒区域のゲートがあって、警察官の方が立っていて、富岡にはまったく立ち入り不可の状況。コンビニが1軒あるのみだった川内村は、震災前まではスーパーやドラッグストアに行きたいときはだいたい富岡に行っていたのが難しくなり、最寄りのスーパーまで40分という生活です。2013年、富岡の一部が宿泊を伴わない一時帰宅が許可された「居住制限区域」に再編成されてからは、車で通過はできるようになりました。けれど引き続き避難指示は出ているため、当初は電気も通っておらず、信号もなく、真っ暗な中に野良化した牛の群れがいたことが印象的です。完全なゴーストタウンでした。

久延さん さっき、同じく警戒区域になっていた浪江町を経由して富岡町に来たのですが、とてもキレイだったので、その状況がまったく想像できません…。その状況で川内にいて、就職して、生活をしようと決断をしたのが、本当にすごいなと…。

辺見さん 「自分が研究してきた放射線の知識を生かして役立てながら、地元の方が何を感じているのか現地で知りたい」という一心でした。でも、放射線量測定を行ったり、放射能をはじめとする地元の皆さんの心配事を聞く仕事を2年半ほど続けたところで、サテライトが楢葉町に移転することになりまして。そのまま楢葉に移って働く打診はあったものの、当時の私は川内村が大好きで離れたくなくて、そのまま満期で契約を終了、川内村に残る道を選びました。

―仕事を辞めてでも残りたい、と思った川内村の魅力は何だったのでしょうか。

辺見さん 人の繋がり、でしょうか。私が福島に来た理由に「田舎暮らしへの憧れ」というものはまったくなかったはずなのに、気がついたらすっかり田舎暮らしを楽しんでいて。みんな、それぞれの車のナンバーや車種を知っているので、どこかに出かけると「あそこにいたでしょ?」と聞かれるくらい近い関係でしたが(笑)、そのかわり「ちょっとお茶飲んでいきな〜」とみんながすぐ家に上げてくれて、その開かれたアットホーム感が心地よかった。東京のマンションで育ってきたので、そのくらい近い距離での付き合い方をしたことがなくて、すごく面白かったんです。ひとり暮らしをしていても、ひとりじゃない。それが私にはハマりました。
そこで、カフェでアルバイトをしながら川内村に残って、「川内盛り上げっ課(現:ふくしま盛り上げっ課)」を地元の人や同じく移住してきた方と一緒に立ち上げて。最初はNHKの番組収録で川内村の未来を話し合うワークショップに参加したことがきっかけ。そのときの有志メンバーで「川内村で、みんなでいろんな楽しい経験をしよう」ということで、藍染やベリーダンスの講座や、イベントを企画していました。その後2016年、当時付き合っていた福島の新聞社で働いていた彼がいわき支社に異動することになり、そのタイミングで結婚し、一度いわきに引っ越しました。

久延さん お仕事もいわきで探し直したんですか?

辺見さん いえ、ずっといわきから1時間かけて、双葉郡各地の富岡、川内、楢葉付近に通って、夫の扶養の範囲内で働いていました。川内村が運営する「かわうち興学塾」で子どもたちの勉強をサポートしたり、双葉郡8町村のインフォメーションセンター「ふたばいんふぉ」のスタッフをして名産品の仕入れをしたり、楢葉町の居酒屋で働いたり…。ほとんど人に誘われて始めました。

久延さん それぞれ全然違うお仕事に見えて、すごいです。

辺見さん かなりバラバラですよね(笑)。ただ、実は結婚から3年ほどで、元夫が神奈川出身の方だったんですが「神奈川に帰りたいです」と別居することになりまして。「じゃあ、私はいわきからどこに帰ろうか?」と考えたとき、それは東京ではなくて「双葉郡に帰りたい」でした。そこで川内村の友達に相談したところ、ちょうど富岡町の親戚の家が空いているということで、2020年から富岡に暮らし始めました。

「人任せにしたらいけない」富岡で感じた課題解決のため、議員の道へ

―富岡町に引っ越した後、どのような流れで「議員になろう」と思ったのでしょうか?

辺見さん 最初の最初は、移住の仕事をしたのがきっかけです。2021年7月に「移住の仕事をしてみない?」と友人に誘われ、「一般社団法人とみおかプラス」というまちづくり会社で働き始めました。町の機能を取り戻すところから始まった会社で、私が働き始めたくらいの時期から、移住者を増やす動きに力を入れるようになりました。そのときの私は、福島に移住してすでに約9年。福島のいろんなところで暮らして、町の特性の違いも、移住者の方の気持ちもわかる。そこで、移住希望の方の相談に乗ったり、移住体験プログラムの企画や運営を担当していました。そこで働いて知ったんですが、富岡町って、移住者がものすごく多いんです。

久延さん どのくらいいらっしゃるんですか?

辺見さん 富岡町は今、実際に住民票を富岡町において居住しているのが約2500人。そのうち、震災前から住んでいた「帰還者」が約1000人、残りの約1500人ほどが、仕事の関係などで移住してきた「転入者」です。けれど、移住してきた方の声は行政に届きづらい、そもそも自分がどこの行政区なのかわからない…そんな課題が見えてきました。移住者も含めた行政の取り組みがもっと必要なのでは、富岡町にもっとコミットしてみたいと感じ、2024年3月、町議会議員選挙に立候補して、当選しました。


久延さん 「こういうところが良くなったらいいよね」と思うことはあっても、なかなか行動に移すことができないのですが、そうやって「やってみよう!」と思える秘訣って、なんですか?

辺見さん そうですね…「課題があり、必要性があったから、私が動いてみた」のケースが多いので、実は私自身はそこまで活発に動いている感覚はないんです。たとえば富岡で子ども食堂を運営しているのも「学校にPTAや保護者会がない、保護者同士や地域の皆さんで気軽に集まって、もっとコミュニケーションを取れるコミュニティ食堂があったらいいよね」という話から始めたもの。議員もそうです。

久延さん どんな課題があったんですか?

辺見さん まず富岡町は、今でも帰還困難区域があり、いわきや郡山をはじめとした別の地域に避難している議員さんもいる、という事情があります。そのうち「この人は実際にいろんな話を聞いてくれる議員さんだな」と思っていた方が、ご自身の事業に専念する関係で辞めてしまうと聞いて。「実際に会える議員が、さらに少なくなってしまう」という課題を感じました。

―そこで自ら立候補を選ぶのがすごいです。

辺見さん 私も最初は、議員に向いていそうな人に「ねえねえ、立候補しないの?」と聞いていましたよ(笑)。でもみんなそれぞれやりたいことがあって、それを実現する方法は、議員ではなかった。それで「人任せにしたらいけない、自分でやるしかない」と思いまして。まずやってみるのが大事だなと。ただ、実際に住んでいるのは2500人でも、住民票を富岡にしたまま町外に避難している方がかなり多く、有権者自体は1万人以上。票がどうなるか、まったく予想できませんでした。「私は、まずは富岡で暮らしている人に訴えかけてみよう」と街頭に立って有権者にご挨拶する「辻立ち」の日々を続けていたものの、当選したときは本当に驚きました。

―30代の女性が町議会議員にいるというのは、富岡に住む女性や若い世代の方にとっては特に嬉しい、という声も多いのではないでしょうか?

辺見さん 私は今35歳なのですが、私の次に若い方でも50代。そういうこともあってか、おかげさまで「女性の議員が増えて心強い」「30代の議員がいてくれて希望を感じた、勇気をもらえた」と言ってくださる方もいるので、そういう声に応えられるように働いていきたいです。私が議員を選んだのは「日々暮らしている皆さんの声を拾って、町に届けたい」から。議員と並行して「とみおかこども食堂」の活動も続けているのですが、そこで移住してきた若い子育て中の方の生の声も拾えてもいるので、そういった活動も続けていきたいですね。

ゆったり時間が流れる福島から実現したい、思い描く理想の姿

―今、辺見さんが思う、富岡の魅力とはどのようなものでしょうか?

辺見さん 議員として仕事をする立場で見ると、震災からまだ完全に立ち直ったとは言えず、足りないところもまだまだあります。でも、言い換えれば「もっと良くなりそうな伸び代がたくさんある」ということ。そこが魅力的です。ひとりの住民として見ると、やっぱり自然や風景の美しさでしょうか。桜まつりが開催されるほど美しい桜並木があるんですが、春の桜の時期はもちろん、夏のグリーン、秋の紅葉、冬の雪景色と、毎日のように姿を変えて美しい風景を見せてくれる。それを定点観測で見られることが幸せだと感じます。

桜並木がある「夜ノ森」駅では、9年ぶりにJR常磐線が開通した2020年、NEXT TOHOKU ACTIONの一環で「カラフルとみおかプロジェクト」を実施。富岡町立にこにここども園の園児と先生が、駅待合室と駅東西自由通路に設置する「モザイクアート」と「カラフルベンチ」を制作。こちらは桜並木のモザイクアート。アートとベンチ制作に使われたブロックは、なんと花王製品の洗剤や柔軟剤の詰め替えパックをリユースしたもの。

こちらはカラフルベンチ。「カラフルとみおかプロジェクト」は、「富岡を想う色とりどりの人々が出会い交流する場をつくり、街を明るくにぎやかにしたい」「富岡の魅力を広く発信し、この桜並木を未来につなぎたい」という想いで始まりました。

自由通路に貼られた横断幕には、皆さんから寄せられた富岡へのメッセージや好きなところがたくさん書かれていましたが、やはり「桜」にまつわるコメントが目立ちました。

辺見さん めいちゃんは横浜から福島に来て4年。「福島のこういうところが素敵だな」と思うことはありますか?

久延さん いちばん感じるのは、人のあたたかさです。やっぱり東京や神奈川は、殺伐とした雰囲気で歩いている仕事帰りの人がたくさんいますし、私もそうでした(笑)。でも、福島にはイライラして歩いている人がいないんです。それだけで、毎日こんなに気分良くいられるんだと驚きましたし、福島で3年半過ごして「穏やかになったね」と周囲から言われるようになりました。忙しさ自体はそこまで変わっていないはずなんですが、時間に追われている感覚がなくなりました。不思議です。

辺見さん 私も、流れている時間の感覚が違って、ゆったりしてるなという感覚があります。東京にいるとせかせかしないといけない感じだけど、福島は時間がゆっくり流れている感じ。そう思いません?

久延さん 思います!

辺見さん それがひとつ、私がこれからやっていきたいことにも繋がるんですが、「今の日本で生きやすい人」って、かなりいろんな条件を頑張って頑張ってクリアして生き延びた、一部の精鋭だけのように感じることがあります。そういう人だけが楽しく暮らせるんじゃなくて、もうちょっと「頑張らなくても、ゆるっと楽しく暮らせる社会」があってもいいんじゃないか、それを時間がゆったり流れるこの富岡から始められたらいいな、と思います。そしてもうひとつ目指したいのは、「ごちゃまぜの社会」

久延さん 「ごちゃまぜの社会」って、どんな感じですか?

辺見さん まずは、仕事の関係で短期間住む方も、長期間住む方も、ひとりひとりが、「ここに暮らしていて、よかったな」と思える町にしたい、ということをずっと思っているのが前提にあります。川内村で「ここに住み続けたい」と思った原体験もありますし、「富岡は、自分の居場所だ」と多くの人に思ってもらえるような町にしたい。そのとき、世代や性別、障がいなどを問わず、多種多様な人が混ざり合って、みんなが住みやすいと思って暮らしている状態が理想だな、と思っていて。もともと、富岡町は福祉の町で、町内に障がい者支援施設や支援学校があり、「福祉の里」という看板がありました。けれど、震災でみんな避難したまま戻ってこないため、今は看板があるのみ。私自身、いくつかの当事者でもあるので、そういった福祉はさらに強化していきたい、と考えています。

―ちなみに、辺見さんは何の当事者なのでしょうか?

辺見さん いわゆる躁うつと言われる双極性障害や、突然眠ってしまうナルコレプシー、発達障害のADHDを持っています。やっぱり東京ほどは精神疾患や発達障害の理解度がまだ発展途上で、「発達障害かもしれないから病院に行きたい、と言っても、親がそんなはずがないと行かせてくれない」「うつ病になったけど親に薬を捨てられた」という話をこちらに来てから聞きました。まずはもっと認知度を上げたい、そして障がいや特性がある方の悩みや生きづらさを本音で話し合える場がほしいという課題から、「きゃべつの葉っぱ」というサロンを2か月に1回ほど開催しています。

久延さん 少し違うかもしれませんが…私、自己免疫疾患を持っているんです。突然原因不明の発熱が続いて、いつ下がるかわからない。特にコロナ禍真っ只中の頃は、発熱しているだけで外出できなかったので、急に1か月丸ごとバイトを休まなければいけないこともありました。でもそれは、理解しての押し付けになっていないか、考えていました。
まず、この病気を知らない人のほうが多いので、今、現段階でいちばん楽な選択肢は、周囲に「そういうものなんだから、理解して」と押し付けるようになってしまうか、普段は隠して認めてくれるコミュニティに行くこと。なので、押し付けるわけでも隠すわけでもなく、その真ん中くらいでいけるコミュニティがあるって、すごい素敵だな、と。私だけじゃなくて、人それぞれ課題や、なかなかオープンにできないことがあると思うんですけど、それぞれみんなで助け合っていける形になれたら、当事者同士心が軽くなるのかな、って。

辺見さん お話してくれてありがとう。私はオープンにしていきながら理解者を増やす方法をとっているけれど、みんながみんなそれがベストじゃないこともあるから、強制するわけではありません。でも、オープンにしたい人はオープンにできて、引かれもせず、お互いが迷惑に感じることもなく、支え合えるような、そんな社会がいいな、と思います。今は、誰々がこういう障がいや特性があるんだよ、という話になると、少し腫れ物を扱うようになったり、「えっ?」と引いちゃうこともあったりするじゃないですか。それが「何が起きてもみんながびっくりしなくて、引かない社会」になると、みんなもっと生きやすくなるんじゃないか、と思っています。たとえば「あなたは発達障害があるんだね、それってこういう性質なんだよね」ということをみんながなんとなく知っていて「そういうこともあるんだね」くらいで、みんなが受け入れあえる社会。福祉に仕事で関わる人だけがやるんじゃなくて、一見全然関係ない人も自然に何かしているような…。そういう意味で「ごちゃまぜ」が理想だな、と思います。

久延さん その理想像って、何かで事例を見たとかから始まったんですか?

辺見さん 神戸の「はっぴーの家ろっけん」という介護付きシェアハウスがすごく面白い取り組みをしていまして。そこは学生さん、高齢の方、子育て中のお母さんなど、職業、年齢、国籍もさまざまな方が出入りして、コミュニティを形成している。近所のママさんがお子さんをそこに暮らす高齢者の方に預けて買い物に行ったり、小学生の子たちがゲームをしていたり。そうやって、多様な人がごちゃまぜになっていて、お互いを受け入れ合える状況が、今後の日本にあるといい姿なんじゃないかなと思いました。富岡に元から住んでいた人も、移住してきた人も、バラバラなみんなが一緒になって町の人同士のコミュニティを作りながら、誰もが生きやすくいられる社会を富岡から始めていけたらいいな、と思っています。…壮大な夢です(笑)。


富岡町は、震災からまもなく14年が経とうとする今も、帰還困難区域に指定された立ち入り禁止の場所が、町の面積の約1割を占めています。取材に訪れた日も、駅前すぐの場所でおそらく土壌入れ替えの作業が行われており、震災はまだ、日常のすぐ近くにあるものという印象を受けました。
それと同時に、流れる空気はとても穏やかで、思わず深呼吸をしたくなる。その町で「お互いを受け入れあえる社会を作りたい」という辺見さんのこれまでと、これからをうかがいました。課題解決のため、着実に行動を重ねてきた辺見さんが、どう社会を変える一歩を踏み出して未来を作っていくのか。そしてそれは、日本を変える一歩になるかもしれません。

What’s「ネクストとうほくアクション」?

花王が支援する取り組みで、東北の3つの新聞社である岩手日報、河北新報、福島民報が手を取り合って、東北の皆さんとともに未来を考え、未来につながる活動を推進していく取り組み。現地の高校生・大学生とともに行うプロジェクトや東北に花を咲かせるプロジェクトなど、さまざまな取り組みを行っています。
公式サイト https://smile-tohoku.jp/

協力/花王グループカスタマーマーケティング株式会社

撮影/安川結子 構成/後藤香織