あれ? と心の内で、首をひねる。なにを言っているんだろう、わたしは。
謝りに、きたんじゃなかったっけ。昨日のことは、悪い夢のようなものだったと。あってはならない、一度きりの、あやまちだったと。そう、告げにきたんじゃなかったっけ。
「僕も、そう言おうとおもってた」
とつぜん、声がした。顔をあげると、土屋くんがわたしをみていた。逆光で陰になった顔のなか、ふたつの目だけが、らんらんとかがやいている。
「昨日、帰ってからずっと、山下さんにされたこと考えてた。勉強に集中しないといけないのに、頭から離れなくて」
土屋くんは、苦しげに息を吐いた。
「このまま、集中できなくなったら、困る。ほんとうに、困るんだ。だから」
彼はそこで言葉を切り、くるりと踵を返した。本殿をまわり、人目につかない灌木の陰にしゃがみこむ。わたしも、ゆっくりと腰を下ろした。
むせかえるような植物の匂いのなか、わたしたちはみつめあった。昨日の理科準備室と、おなじ恰好で。
頬の傷は、かすかに淡くなっていた。血はもう流れていない。かわりに、こめかみを一滴、汗が伝ってゆく。
「……だから、あと一回だけ」
「うん」
「終わったら、ぜんぶ忘れよう」
「うん」
低い声が、まるで水のように鼓膜にしみこんでくる。土屋くんは、いつも正しい。彼の言うとおりにすればいい。そんな気持ちが、わきあがってくる。わたしは思考をとめて、目をつむった。
ぐに、とやわらかいものが唇にあたる。
二度目の、くちづけ。
かわいた表面をこすりあわせていると、割れ目をみつけた。思いきって舌でぺろりと舐めてみると、ひらいた。皮下へとつづく、入り口。すかさず、するりと滑りこむ。
暗くてせまい、洞窟のような口のなかを必死にまさぐっていると、先端になにかがふれた。地の底にうずくまる、もうひとつの熱いかたまり。たぐりよせるように舌をうごかすと、相手も負けじと吸いついてくる。
彼も熱をかかえているのだ、と頭の隅でぼんやり思った。行き場のない、かたちにならない疼きを。
ふたりでつくった昏い穴のなか、ふたつの熱がまざりあう。ぴたぴたと、水音がひびく。
もっと深く。もっとふかく。下へ。下へ。熱源へ。
唐突に、唇が離された。つよい力で肩を掴つかまれ、砂利のうえに押し倒される。わたしは、土屋くんの顔を真下から見あげた。ゆるく癖のついた、太い黒髪。眼鏡のむこうの、奥二重の目。頬と鼻には、見覚えのあるちいさな紅い傷痕がたくさん散らばっていた。にきびの、痕。
ああ、と思わず息を吐く。
わたしと、おなじだ。
皮下に埋まったものを、表へ引きずりだすときの快感を、彼も知っている。
してはいけないことだとわかっていてなお、自分を抑えることのできない人。
「やました、さん」
けもののような荒い呼気が、鼻先をよぎる。瞳はとろりと濁り、粘っこいひかりを放っている。
熱い吐息が、耳にかかった。濃密な汗のにおいに、眩め まい暈がする。土屋くんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。うけいれようと、口をひらいた瞬間。
ぴりりりりり、と音がひびいた。
甲高い、サイレンのような電子音。
わたしは、撃たれたように体を起こした。
ぴりりり、ぴりりり、と音は単調に鳴りつづけている。土屋くんは肩で息をしながら、制服のポケットに手をのばした。おもちゃみたいにぶ厚い、折りたたみ式の携帯電話をひっぱりだす。ぴりりり、ぴ、と音が止んだ。
「……びっくりした」
「ごめん」
顔をそむけたまま、土屋くんがぼそりと言った。
「そろそろ、帰らないと」
制服についた砂を払って、たちあがる。
わたしはとっさに、口をひらいた。
「土屋くん」
彼は、ゆっくりとこちらにふりかえった。瞳はかすかに潤み、頬はまだ紅く熱をおびている。
あと一回だけ。そういう、約束だった。
これで、終わりにしなければ、きっとどこまでも、落ちていってしまう。
けれど、土屋くんはわたしをみていた。息をつめ、祈るような目つきで、みていた。
わたしも、彼をみつめかえす。彼がいま何を考えているのか、手にとるようにわかった。
なぜなら、わたしもきっと、おなじことを思っていたから。
「明日も、会える?」
土屋くんは、かすれた声で応えた。
「五時に、ここで」
★次回 第7話はこちら
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館