『もう二度と食べることのない果実の味を』第6話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されます。CanCam.jpでは、この衝撃作品の試し読み連載を開始。どこよりも早く、作品をお届けします。

 あれ? と心の内で、首をひねる。なにを言っているんだろう、わたしは。

 謝りに、きたんじゃなかったっけ。昨日のことは、悪い夢のようなものだったと。あってはならない、一度きりの、あやまちだったと。そう、告げにきたんじゃなかったっけ。

「僕も、そう言おうとおもってた」

 とつぜん、声がした。顔をあげると、土屋くんがわたしをみていた。逆光で陰になった顔のなか、ふたつの目だけが、らんらんとかがやいている。

「昨日、帰ってからずっと、山下さんにされたこと考えてた。勉強に集中しないといけないのに、頭から離れなくて」

 土屋くんは、苦しげに息を吐いた。

「このまま、集中できなくなったら、困る。ほんとうに、困るんだ。だから」

 彼はそこで言葉を切り、くるりと踵を返した。本殿をまわり、人目につかない灌木の陰にしゃがみこむ。わたしも、ゆっくりと腰を下ろした。

 むせかえるような植物の匂いのなか、わたしたちはみつめあった。昨日の理科準備室と、おなじ恰好で。

 頬の傷は、かすかに淡くなっていた。血はもう流れていない。かわりに、こめかみを一滴、汗が伝ってゆく。

「……だから、あと一回だけ」
「うん」
「終わったら、ぜんぶ忘れよう」
「うん」

低い声が、まるで水のように鼓膜にしみこんでくる。土屋くんは、いつも正しい。彼の言うとおりにすればいい。そんな気持ちが、わきあがってくる。わたしは思考をとめて、目をつむった。

 ぐに、とやわらかいものが唇にあたる。

 二度目の、くちづけ。

 かわいた表面をこすりあわせていると、割れ目をみつけた。思いきって舌でぺろりと舐めてみると、ひらいた。皮下へとつづく、入り口。すかさず、するりと滑りこむ。

 暗くてせまい、洞窟のような口のなかを必死にまさぐっていると、先端になにかがふれた。地の底にうずくまる、もうひとつの熱いかたまり。たぐりよせるように舌をうごかすと、相手も負けじと吸いついてくる。

 彼も熱をかかえているのだ、と頭の隅でぼんやり思った。行き場のない、かたちにならない疼きを。

 ふたりでつくった昏い穴のなか、ふたつの熱がまざりあう。ぴたぴたと、水音がひびく。

 もっと深く。もっとふかく。下へ。下へ。熱源へ。

 唐突に、唇が離された。つよい力で肩を掴つかまれ、砂利のうえに押し倒される。わたしは、土屋くんの顔を真下から見あげた。ゆるく癖のついた、太い黒髪。眼鏡のむこうの、奥二重の目。頬と鼻には、見覚えのあるちいさな紅い傷痕がたくさん散らばっていた。にきびの、痕。

 ああ、と思わず息を吐く。

 わたしと、おなじだ。

 皮下に埋まったものを、表へ引きずりだすときの快感を、彼も知っている。

 してはいけないことだとわかっていてなお、自分を抑えることのできない人。

「やました、さん」

 けもののような荒い呼気が、鼻先をよぎる。瞳はとろりと濁り、粘っこいひかりを放っている。

 熱い吐息が、耳にかかった。濃密な汗のにおいに、眩め まい暈がする。土屋くんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。うけいれようと、口をひらいた瞬間。

 ぴりりりりり、と音がひびいた。

 甲高い、サイレンのような電子音。

 わたしは、撃たれたように体を起こした。

 ぴりりり、ぴりりり、と音は単調に鳴りつづけている。土屋くんは肩で息をしながら、制服のポケットに手をのばした。おもちゃみたいにぶ厚い、折りたたみ式の携帯電話をひっぱりだす。ぴりりり、ぴ、と音が止んだ。

「……びっくりした」
「ごめん」

 顔をそむけたまま、土屋くんがぼそりと言った。

「そろそろ、帰らないと」

 制服についた砂を払って、たちあがる。

 わたしはとっさに、口をひらいた。

「土屋くん」

 彼は、ゆっくりとこちらにふりかえった。瞳はかすかに潤み、頬はまだ紅く熱をおびている。

 あと一回だけ。そういう、約束だった。

 これで、終わりにしなければ、きっとどこまでも、落ちていってしまう。

 けれど、土屋くんはわたしをみていた。息をつめ、祈るような目つきで、みていた。

 わたしも、彼をみつめかえす。彼がいま何を考えているのか、手にとるようにわかった。

 なぜなら、わたしもきっと、おなじことを思っていたから。

「明日も、会える?」

 土屋くんは、かすれた声で応えた。

「五時に、ここで」

 

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『たべかじ』連載一覧

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雛倉さりえ

1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。

 

写真:岩倉しおり

本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館

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