なにげなく放りだされた言葉に、思考が止まる。
彼氏? 真帆が? フリーズしていると、由佳子は目を丸くした。
「えっ、知らなかった? 春から付き合ってんじゃん。向野さんと濱くん」
「うそ!」
「嘘うそじゃないよ」と彼女は笑った。
「たぶんクラスの子はみんな、気づいてるよ」
真帆が、あの真帆が、濱くんと? そんなに前から?
ぜんぜん、知らなかった。呆然としていると、由佳子がなぐさめるように言った。
「まあ、冴、恋愛とか興味なさそうだしね」
気にしない方がいいよ、と優しくつづける。
「べつに、隠してる感じでもなさそうだし。冴にだけ秘密にしてたわけじゃないと思う」
「うん、そうだよね」
言いながら、内心ため息を吐いた。どうしてみんながかんたんに気づけることが、わたしにはわからないんだろう。ましてや真帆は、わたしのおさななじみなのに。
女子たちの甲高い笑い声が、遠くでひびいている。佐藤さんも、真帆も、濱くんも。楽しそうに笑っている。
恋愛。れんあい。異国の地に生る果実をおもうように、その言葉をつぶやいてみる。やわらかくて、いい匂いがして、とろけるくらい甘いもの。えらばれた子たちだけが、互いにたべさせあうようにして、すこしずつ口にふくむおいしいもの。
その輪にわたしが混ざることはできないし、混ざりたいわけでもない。わたしにはほかに、しなければならないことが、勉強が、あるのだから。自分に言い聞かせながら、ぼんやりと校庭を見わたす。
濱くんにつづいて運動部の男子たちが次々にゴールしてゆくなか、ひとりだけ、周回遅れの生徒がいた。植物のようにひょろりとした手足に、日焼けしていない白い肌。土屋くんだった。
男子も女子もはしゃいでいて、だれも彼のことなんか見ていない。それでも土屋くんは、体ごと大きく上下させて呼吸しながら、必死に走っていた。
クラスメイトたちの笑い声がひびく校庭で、わたしは土屋くんをみつめつづけた。
放課後、わたしはいつものように図書室で勉強した。
数学の問題集が一段落したところで、おおきく伸びをする。窓を見ると、すでに陽が傾きかけていた。山の方で、ちかちかと白い光が瞬いている。低い空でかがやく星のようにも見えるけれど、あれは山の頂に建っているホテルの灯りだ。この町でもっとも豪奢で有名な、チェーンのリゾートホテル。
昔とはくらべものにならないけれど、この町を訪れる客は、まだぽつぽつと存在する。過去にこの町に訪れた思い出を懐かしむため、再訪する人。客のいない時季をねらって、のんびりと長期滞在する人。いずれにしても、今あの光のなかにいる人びとは、高級ホテルに泊まれるだけのお金と時間をもっている。
ときどき、不安におしつぶされそうになる。人生でたった一度きりの、中学生活。わたしが勉強をしているあいだ、みんなは彼氏を作ったり、友だちとお喋りしたりして、楽しい時間をすごしている。ほかの全てを切り捨てて頑張っているのに、もし不合格になったら、今までの努力が、ついやした時間が、ぜんぶ無駄になってしまうんじゃないか。
けれど、あの光をみると、すこしだけ安心する。何がほんとうに正しいことなのか、思い出させてくれる。だいじょうぶ。わたしは、まちがっていない。今はよけいなことは考えず、上の世界を、あの華やかな光を、めざせばいい。
今日の土屋くんの姿を思い出す。にぎやかな喧騒には目もくれず、自分がゴールだと定めた場所にむかって、一歩一歩、足をふみだしていた、彼の姿。
そうだ。一瞬で溶け消える、脆もろい甘さなんて、必要ない。
上へ。上へ。努力した時間は足元に積みかさなって、わたしの体を押しあげてくれるはずだ。高校。大学。就職。すこしずつでも昇りつづけてゆけば、いつか遠い光にもとどくだろう。
ペンをにぎりしめたとき、ふいに、皮膚の下が、じん、と熱く疼いた。またか、と息を吐く。うっとうしい、皮下の熱。きっと勉強に集中したあとの、余熱のようなものだろう。放っておけば、そのうち消えてなくなるはずだ。わたしは問題に意識を集中させた。
★次回 第4話はこちら
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館