顔をあげると、土屋くんは困ったような顔で、わたしをみていた。ズボンをみると、布地はわずかにふくらんでいる。
「なんで?」
訊ねても、応えはない。
じわじわじわ、と蝉の声が頭上でひびく。土屋くんの鼻先には、大粒の汗が噴きだしていた。それをみた瞬間、わたしは思い当たった。
──……ごめん。
かすれた声が、頭のなかによみがえる。
もしかして。コンドームを買えなかったことを、気にしているのか。
理由がわかると、心がゆるんだ。今日までは、そんなそぶりは一度もみせていなかったのに。意識したとたん、怖くなったのか。あわれみと、かすかな侮りが、笑みとともにゆるくこみあげてくる。
土屋くんは、真面目だ。真面目で、正しい。いつだって。
そういえば、姉もそうだった。頭が良くて、勉強が得意で、いつも潔く正しい言葉で舌を濡らしている。ふたりは、とてもよく似ている。
でも、とわたしはおもう。強度がちがう。姉の正しさは、残酷なくらい強靭だ。圧倒的な美と知に支えられた、手出しのできない、完成された正しさ。
土屋くんのそれは、ちがう。土を割って顔をだしたばかりの植物みたいに、やわらかくて、隙だらけで、ひどく脆い。わたしの手で、枉げることができるくらいに。
「いれていいよ」
そう言うと、土屋くんの顔がぐにゃりとひずんだ。泣き出す寸前の、子どものような顔。わたしはできるだけ優しい声をつくって、あやすように言った。
「前みたいに、外に出してくれればいいから」
怯えきった小動物の瞳が、ぱちぱちとしばたたかれる。
「……でも、やっぱり、やめた方が」
「だいじょうぶだってば」
耳元で、ささやく。瀕死の獣をけしかけるように。いたぶるように。
「ねえ、はやくしよ」
土屋くんは泣きそうな顔のまま、ゆっくりとズボンに手をかけた。外れたベルトが地面に黒いとぐろを巻いてゆくのを、わたしは黙って見つめていた。
土屋くんは正しい。正しくて、弱い。
手をのばし、つまむようにそこにふれる。あ、と女の子みたいに華奢な声がこぼれる。わたしは彼の性器を自分の熱にあてがい、そのまま、腰を沈めた。
結局、その日はつづけて二度、交わった。
暮れなずむ空のした、廃墟は夏草の波のなかに、しずかに佇んでいる。わたしたちは汗だくのまま、ごろりと草むらに寝転がった。
「さっき、思いだしたんだけど」
息を整えながら、土屋くんが言った。
「僕、前に一度、ここにきたことがあるかもしれない」
え、と声が洩れる。
「この庭にもぐりこんでたってこと?」
彼は首を横に振った。
「まだここが営業してたころの話。なにかのパーティだった」
「ひとりで?」
もういちど、首を振る。
「家族といっしょに」
土屋くんの親も、ホテル関係の仕事をしているのだろうか。気になったけれど、なんとなくそれ以上は訊けなかった。
地面に寝ころんだまま、わたしは円柱の方に目をやった。
パーティ、という言葉のひびきが、暗く濁った窓硝子に、淡い幻を映しだす。まばゆいシャンデリア、磨きあげられた大理石の床を踏むエナメルのヒール、革靴、ざわめき、笑い声。肉の焼ける芳ばしいにおい。
うたかたの饗宴の景色の上を、白い魚が泳ぎぬけてゆく。どこにもいけないまま、昏い世界で狂ったように繁栄してゆくめだかの姿が、踊りあかす人々の幻にかさなる。
わたしたちも、かれらとおなじだ。一瞬きりの快楽を、あとさき考えずにむさぼっている。
そう遠くない終末から、必死に目を逸らそうとして。
じわじわじわじわ、と蝉の声が廃墟にひびく。手首を、ちいさな虫が這ってゆく。枝葉のこすれる音がする。わたしたちはちいさなふたつの死体のように、いつまでも廃墟の底に横たわっていた。
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
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(c)Sarie Hinakura・小学館