『もう二度と食べることのない果実の味を』第13話
どんなに深くねむっていても、家の最寄りのバス停に近づくと自然に目が覚める。無人のバス停に降り立つと、おなかの底が鉛のようにおもたくて、さっきのできごとが夢じゃないことを思い知った。けだるい体を引きずって、坂道をくだる。
腕時計をみると、七時前。いつもより三十分以上遅くなってしまった。家の前までくると、ちょうど母が庭の植物に水をやっているところだった。わたしに気づくと、顔をあげる。
「冴、おかえり」
夕暮れの庭には、夏の花々がいろとりどりに咲き乱れていた。濡れたようにあざやかな薔薇、まっかなサルビア、少女のドレスのようなペチュニア。
如雨露をかたむけながら、母が言う。
「おなかすいた? 今日はカレーつくったのよ。夏野菜、お隣さんにたくさん戴いてね」
いつもどおり、おだやかに広がる世界の景色は、まるで絵に描いた背景のように見えた。そこから今、わたしだけが、うっすらと剥離しかかっている。
わたしは母の横をすりぬけて、ふらふらと玄関にむかった。
「冴、どうしたの。ごはんは?」
あとで、と短く返し、靴を脱ぎ捨てて階段をのぼった。自室に入って、ドアの鍵を閉める。
おそるおそるジーンズを脱いで下着をおろすと、腿に血痕がこびりついていた。きっと、性器がはいってきたときに、内側の肉が傷ついたのだろう。冷静に考えながら、服を着替えた。体は重たいのに、バスでたっぷり眠ったせいか、頭は不気味なくらい明晰だった。
いつもの習慣で、わたしはふらふらと勉強机にむかった。数学の問題集をひらき、目についた数式をかたっぱしから、すがるように解いてゆく。因数分解、平方根、二次方程式。いつもどおりの問題。いつもどおりの解き方。
とつぜん、ぐにゃりと数字がゆがんだ。みると、ペンをもつ手が震えていた。
大人がつくった問題を解き、大人がつくったルールのもとに上をめざす。そんな垂直の世界で、ずっと生きてきた。でも、どんなに頑張っても、先をゆく姉にはとどかない。だから、真逆の方向へ落ちようと思った。
それなのに、結局こうやって、日常に、勉強に、すがりついている。
世界の外にはみ出てしまった自分を慰めるために、壊したかったはずの世界にしがみついている。
ふ、と思わず笑いがこぼれた。なんてぶざまで、滑稽で、みじめなんだろう。
「冴はどうしたんだ?」
「食欲ないみたい。夏風邪かしらね」
階下から、かすかに両親の話し声がした。おいしそうなカレーの匂いが、鼻先をくすぐる。
気づけば、涙がこぼれていた。