『もう二度と食べることのない果実の味を』第10話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されました。CanCam.jpでは大型試し読み連載を配信。危険な遊びへ身を投じたふたりの運命、そして待ち受ける結末とは……。

「ちょっと、相談したいことがあって」

 そのとき、ぱしゃんと水音がひびいた。みると、髪を洗い終わったらしい瑞枝が浴槽に入ってくるところだった。真帆は湯船から立ちあがると、瑞枝にむかって微笑み、それから、わたしの耳元でささやいた。

「また今度、話すね」

 脱衣所へ戻ってゆく真帆を見送ってから、わたしと姉は顔を見あわせた。

「真帆ちゃん、どうかしたの?」
「……さあ」

 相談したいことって、なんだったんだろう。話をきいてくれる友だちは、真帆の周りにたくさんいるはずなのに。どうしてわざわざ、わたしに。

 首をかしげていると、瑞枝がのんびり言った。

「まあ、いろいろあるよね。冴くらいの歳としだと」

 湯のなかから腕を引き抜き、おおきく伸びをする。手も、腋も、足も、一本も毛がはえていない。たくさんのお金と時間をかけて手入れされていることが一目でわかる、できたてみたいな白い肌。

「そういえば、冴。最近、勉強がんばってるんだってね。母さんが褒めてたよ」
「……受験生なんだから、当たり前だよ」
「そんなことない。冴は昔から、真面目だったもんね。このまま、最後までせいいっぱいやりきりなよ。後悔しないようにね」

 そう言われて、なぜか一瞬、土屋くんの顔が瞼の裏をよぎった。

 おもわず顔をしかめると、不安を感じていると思われたのか、瑞枝はわたしを安心させるように笑ってみせた。

「大丈夫。これまで冴がやってきたとおり、さぼらずに、やるべきことをきちんとやるだけ。がんばった経験は、ぜったい無駄にはならないから」

 姉が、ざばりと浴槽から立ちあがる。浴場を歩いてゆく背中に向かって、わたしは訊ねた。

「お姉ちゃん。いま、幸せ?」

 姉は扉に手をかけたまま、ふりかえって微笑んだ。

「とっても」

 扉がしまると、浴場にわたしひとりが残された。煮えたぎる湯が、肌の表面をちりちりと引っ掻いてくる。

 小学生の頃は、わたしも真帆みたいに、姉にあこがれていた。いつか姉のようになるのだと、夢を見るように信じていた。

 けれど中学校で、初めて模試を受けたわたしは、愕然とした。朝から晩まで必死に勉強したのに、当時の姉の点数に、まるで手がとどかなかったのだ。

 おなじ両親。おなじ家。おなじ中学。条件はすべていっしょなのに、どうしてこんなに差がひらいてしまうんだろう。わたしのなかに、なにか致命的な欠陥があるのだろうか。悩みながら勉強をつづけるうちに、姉への感情は羨望から嫉妬、そして憎悪へと転じていった。

 口元まで湯に沈むと、烈しい勢いで噴き出される気泡の渦に、つまさきから首筋までつつまれた。泡は炸け、渦巻き、ぶつかりあいながら、皮膚をじんわりと熱してゆく。

 瑞枝の言葉はまっとうで、生き方はいつだって正しい。暴力的なまでに純度の高い、ゆるぎない正しさ。

 凜然と頂点に佇む姉を、みんな愛している。両親も、真帆も。

 ──ほんとうはわたしだって、姉みたいになりたかった。
 ──姉を慕っていると、愛していると、無邪気に言いたかった。
 ──いびつにひがみつづけている自分自身が、憎い。

 そう思わされてしまうことが、なにより嫌だった。

 姉の正しさの前では、彼女にさからう感情すべてが、間違いになる。

 行き場のない怒りが、心臓の隅にくろぐろと澱む。浴槽の底からたちのぼる水泡をぼんやりと眺めながら、土屋くんとキスがしたいな、とおもった。

 

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雛倉さりえ

1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。

 

写真:岩倉しおり

本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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(c)Sarie Hinakura・小学館

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