『もう二度と食べることのない果実の味を』第9話
チャイムが鳴ったのは、午後四時半だった。
ドアをあけると、真帆が立っていた。わたしの顔をみると、うれしそうに微笑んだ。
「久しぶり。ごめん、早かったよね。でも待ちきれなくて」
「大丈夫。お姉ちゃんまだだから、中で待ってて」
おじゃましまーす、と真帆はスニーカーをそろえて脱いだ。うしろで小さくまとめられた髪に、大人っぽいブラウス。短めのデニムスカートからは、細くて白い脚がすらりとのびている。
「夏休み、もう一週間も経っちゃったね。ねえ、毎日なにしてる? やっぱ勉強?」
ダイニングテーブルにかけると、真帆はにこにこしながら訊いてきた。まさか土屋くんとキスだけの逢瀬を始めたとも言えず、目を伏せて答える。
「うん、まあ。いちおう毎日、図書館に行ってる」
「わー、やっぱすごいね。わたしは友だちと遊んでばっか。まだなんにもしてないよ」
頭いいひとはちがうね、と明るく笑う真帆をみていると、釈然としない気持ちがこみあげてきた。いまの時期に、受験生が毎日勉強していることは、そんなに「すごい」ことだろうか。当たり前のことを、当たり前にこなしているだけだ。
それにわたしなら、一週間も勉強しない日がつづいたら、焦りと不安で頭がおかしくなるにちがいない。どうしてそんなに気楽に笑っていられるのだろうかと思っていると、チャイムが鳴り響いた。
「瑞枝さん!」
真帆がさっと椅子から立ちあがり、廊下を駆けてゆく。慌ててあとを追いかけると、玄関口に、背の高い女性が立っていた。
姉だった。
長い前髪を耳にかけた、黒髪のショートヘア。瞼は淡い紅色に染められ、厚い唇はちいさなゼリーのようにみずみずしく濡れている。ひざ丈の藤色のワンピースをさらりと一枚で着ていて、素足は高価そうな黒いパンプスに包まれていた。「瑞枝さん、ショートも似合う!」とそばではしゃぐ真帆の服装が、急に子どもっぽく見える。
瑞枝が、ふいに顔をあげてわたしをみた。
「冴。久しぶり」
研ぎすまされたかんぺきな微笑みに、一瞬、気圧される。
東京で暮らしはじめてから、瑞枝はより美しくなった。洗練された洋服に、優雅な立ち居ふるまい。都会の文化にふれつづけ、さらされつづけている人間特有の、ぴりっとした匂い。
「瑞枝、早かったのね」
うしろから、母の声がした。瑞枝は余裕のあるしぐさでわたしから目を逸らし、笑顔のままつぶやいた。
「この街、あいかわらず臭うわね。どんどんひどくなってない?」
「硫黄のこと? 大げさねえ。昔とたいして変わらないわよ」
居間へむかう瑞枝のうしろ姿を、ぼんやりと眺める。
真帆は、瑞枝のことをこのうえなく慕っている。昔はわたしもそうだった。
でも、今はちがう。
わたしは、姉が嫌いだ。心の底から。