『もう二度と食べることのない果実の味を』第6話
あくる日は、終業式だった。
体育館で校長先生の話を聞きながら、わたしは頭のなかで、昨晩自室にこもって考えた台詞をくりかえしていた。
──昨日は掃除の途中で帰ってしまって、ごめんなさい。
──どうしてあんなことをしたのか、自分でもよくわからなくて。
──もう二度と関わらないから。本当に、ごめん。
結局、昨日は担任の先生に体調が悪いと訴えて、掃除の途中で帰宅した。勉強もほとんど手につかず、昼間のできごとについてぐるぐると考えつづけた。
今朝はいつもどおり早めに登校したけれど、土屋くんは珍しく、すこし遅刻してやってきた。
教室に入ってきてから、彼は一度もわたしを見ようとしなかった。当然だ。あんなことをされたのだから、きっと怒っているのだろう。あるいは、目も合わせたくないほど軽蔑しているだろうか。
それでも、わたしは彼に謝りたかった。
謝ることで、あのできごとを完結させてしまいたかった。ただの事故のようなものだったのだと。二度と起きることのない、いっときの過ちだったのだと。彼に、そして自分自身に向かってそう宣言したかった。
一時間ほどの式が終わると、放課になった。土屋くんは荷物を整えて図書室のある棟の方へ歩いていった。「じゃあまた二学期」と由佳子に手をふってから、彼のあとをついてゆく。
追いつく前に、土屋くんは図書室に入ってしまった。仕方なくあとにつづき、彼の死角となる席に腰をおろした。せっかくだし、わたしも勉強していこう。そう思ってノートをひらいたけれど、土屋くんが気になってなかなか集中できない。
彼の方を盗み見ると、頬杖をついて窓の外を眺めていた。たまに机に視線を落としても、すぐにまた、視線をさまよわせる。
まともに勉強できないまま、ぼんやり過ごしていると、やがて六時の鐘が鳴った。机を見ると、土屋くんはちょうど道具を片づけて、立ちあがろうとするところだった。
廊下に出たわたしは、彼の背中に呼びかけた。
「土屋くん」
彼は、ゆっくりとふりかえった。まるで声をかけられることを予想していたような、落ち着いた顔で。
わたしは唾をのみ、それから、口をひらいた。
「話したいことがあって。いっしょにきてほしい」
下足場で靴を履き替えて、外にでる。空は、夕暮れの赤色に染め抜かれていた。鮮血を一面にふり撒いたような世界。校舎も、木々も、グラウンドも、濡れたようにあかあかと、不気味にひかっている。
話すための場所は、決めていた。校舎裏にある神社だ。昔、真帆と街を探検しているとき、ぐうぜん見つけたちいさな神社。学校やその周辺では、だれかに会話を聞かれる可能性がある。けれど、あそこなら人もめったに立ち寄らないだろう。
校庭に沿ったほそい道を辿り、錆びたフェンスから敷地を出る。木造家屋がみっしりと立ち並ぶすきまに、ゆるやかに連なる石造りの階段をくだった。
やがて、階段の脇に路地のような道があらわれた。家屋に挟まれたその道の先には、ちいさな鳥居があった。空間を四角く切り取る、朱色。
ふいに、足がすくんだ。
この先に、足を踏み入れてはいけない気がする。
たとえ戻ってこられたとしても、そのときは、今のわたしとはまるでちがう、別のなにかになっているかもしれない。
根拠のない、漠然とした不安がこみあげてくる。ためらっていると、土屋くんの足音がすぐ後ろで止まった。そうだ、と思いなおす。怖がっている場合じゃない。彼に謝って、いつもの日常にもどるために、わたしはここにきたのだ。
思いきって鳥居をくぐると、目の前に参道が広がった。一直線にのびた、白い河のような道。そばには、手水舎があった。黒い石でできた水盤に、あざやかな紅白二匹の龍の彫像が据えつけられている。するどい牙のすきまから滲みしたたる、透きとおった水。
通りすぎながら、総合の時間のことを思いだした。この街の地下にひそむ、巨龍の話。この神社は、龍をまつるためにつくられたのだろうか。
つきあたりの境内でふりかえると、土屋くんはまっすぐそこに立っていた。紅く灼けた黄昏の空に、カッターシャツを着た彼のりんかくが、黒い影となって浮きだしている。
「足、だいじょうぶ?」
土屋くんは、黙ったままうなずいた。
しばらく、沈黙が落ちる。
わたしは乾ききった唇を舐めた。かんたんなことだ。たった一言、『昨日はごめんなさい』。そこから始めればいい。きちんと謝って、それでおしまいだ。
なのに、どうして、言葉がでてこないんだろう。
どう、とつよい風が吹いた。拝殿のまわりに植えられた樹々が、黒くゆれる。夕暮れの光が、ちかちかときらめく。紅と、白。絡みあう二匹の龍。
「昨日」
喘ぐように、わたしは口をひらいた。
「昨日、の」
土屋くんは、じっと、こっちをみている。
ふいに、汗のにおいがした。肌の感触。熱い疼き。くらくらするほどあまったるい、血のかおり──。
「もっかい、してもいい?」
気づけば、そう口にしていた。