今、引っ張りだこの大注目ユニット『ROIROM』が登場♡
Netflixで配信されたオーディション番組で、新メンバー最終候補生として注目を浴びた、本多大夢と浜川路己によるユニット『ROIROM』が登場! 2025年5月に活動を開始し、11月23日に有明アリーナで行われる初の単独公演にて、本格的な音楽デビューを果たした彼らに迫ります♡
ROIROMのすべてがわかる! ロングインタビュー
どんな子供時代を過ごして、いつ夢を持ったのか、そしてその夢を叶えるまでの苦悩や葛藤…。多くの経験と出会いを経て、輝く場所に立った彼らの〝人生〟について、たっぷり聞いてきました!
本多大夢
やりたいことを肯定してくれる恵まれた環境のおかげで、今がある
初めて自分からやりたいことを主張したのは、やっぱり「歌」
小さい頃は、人見知りもなく聞き分けのいい子供だったみたいです。たくさんいる親戚の誰に抱っこされても泣かなかったし、むしろ自分から抱っこされにいってたって話も聞きました。両親が共働きだったので、幼少期は祖母と一緒に過ごすことが多かったです。父は薬剤関係の仕事に就いていて、母も元々同じ職種だったのですが、今はキッチンカーを経営してます。週末には父もそのキッチンカーを手伝っていて、母も仕込みでずっと働いているので、ふたりとも本当にパワフル。あとは2歳離れた妹がいまして、小さい頃はよく妹と一緒に祖母の家に遊びに行ったり、飼っていたドーベルマンと遊んでいたので、さみしい思いをすることはなかったです。
小学生のときの夢は、両親の仕事に影響されて、漠然と薬剤師になりたいって思ってました。ふたりともシゴデキ感があってカッコよく見えてたんですよね(笑)。絵を描くことが好きで、ノートに自作の漫画を作ったり、からだを動かすことも好きだったから、小学校の6年間はサッカーのクラブチームに入って、サッカーに打ち込んでました。得意科目は体育、図工、国語。思えば当時、音楽の授業はちょっと苦手でした。例えばリコーダーのテストとか、技術を評価される感じが苦手で…反発してただけかもしれないけど(笑)。
中学に上がる前に、バスケ部だった父から『スラムダンク』の漫画を薦められて、読んだらおもしろくて! 中学校の3年間はバスケ部に所属。小・中学校とずっとスポーツ少年だった僕に変化が起きたのは、中3のとき。妹がAAAさんの存在を教えてくれて、そのときに初めて観たミュージックビデオの、グループの一体感が伝わるパフォーマンスがすごく心に響いて、自分も届ける側になりたいって思ったんです。歌自体は小さい頃から好きで親戚の前でよく歌ったりしていたんですけど、歌を本気でやりたいって思い始めたのは、このときがきっかけですね。人生で初めて自分で買ったCDは清水翔太さんの『Umbrella』というアルバム。メロディラインはもちろん、何より歌詞が好きで、今楽曲制作をする中でも、たくさん影響を受けているし、エッセンスとして取り入れさせていただいている部分も多いです。
高校生になったタイミングで、音楽と真剣に向き合いたいと思って、スクールに通い始めました。それまで自主的にこれやりたい、あれやりたいって両親に言ったことなんてないし、性格的にものほほんとしてたのもあって、このとき初めて自分から「歌を習いたい」って言い出したのが、両親としてもびっくりだったみたい。でも僕にはそんな素振りを見せることなく、スクールに通わせてくれました。両親は僕がやりたいことをいつも全肯定してくれて、何事も1回は挑戦させてくれる環境だったので、やりたいことを素直に伝えることができましたね。高校は家から少し遠くて、海沿いのほうにあったので、電車を乗り継いで約1時間半かけて通学。毎朝5時半起きでした。でも海が好きなので、学校に行くだけでリフレッシュになったし、学校帰りに友達と海に寄って、制服のまま入ってびしょびしょになりながら近くにあった公園でバスケをしたり、海の家でかき氷を食べたり…今思えば青春だったなぁ。高2の後半くらいからは、スクールが忙しくて学校の行事に出られないことが増えたけど、担任の先生も理解してくれていたし、周りの友達もみんな応援してくれて、ありがたかったです。
歌うことに自信を持てた瞬間、音楽の道へ進むと決めた
スクールも年齢の近い友達が多かったので、切磋琢磨して頑張りました。大人数のグループレッスンがメインだったのですが、当時はなかなか前に出ることができず、半年くらいはずっと緊張してましたね。やっぱりグループレッスンってぐいぐい自分から前に出ないと意味がないし、吸収ができないんだなと気づいてからは、積極的になるように意識しました。そんな中、高校の恒例行事である卒業生を送る会で、なんと何千人という全校生徒の前でひとりで歌うことになったんです。曲は秦 基博さんの『朝が来る前に』。緊張したけれど、レッスンやスクールの発表会である程度場慣れしていたのと、友達が応援に駆けつけてくれたので、無事に歌い切ることができました。実はこのとき、卒業後の進路に迷っていた時期でもあったんです。このまま歌を続けるべきか、興味のあるデザインやアートの道に進むか…。でも、たくさんの人の前で歌い切った経験が自信になって、やっぱり歌一本でいこう! とはっきり進路が固まり、迷いがなくなりました。
高校卒業後はボーカル専攻の音楽の専門学校へ。いよいよ本気で音楽を仕事にできるようにしなくちゃ、と本気度が高まりました。在学中に一度だけ韓国で練習生生活をさせてもらって、意思疎通が難しい中パフォーマンスを仕上げるという、難度の高いミッションを初めて経験。それからオーディションもいくつか受けましたが、特に中国のオーディション番組に出演したときは、人生でいちばん心を折られましたね…。自分の人気が可視化されて、パフォーマンス後にスクリーンに自分の票数が出るんですけど、人気のコとの信じられないくらいの票差を目の当たりにするのは、さすがに心にくるものがありました。当時事務所のスタッフが中国まで応援に来てくれていたので、泣きついたことも。でもそのときも路己が一緒で心強かったし、そこで粘り強く頑張ったおかげで、メンタルが鍛えられたと思っています。中国から帰国した後は、無心で歌の練習をしていました。その後、『timelesz project-AUDITION-(以下タイプロ)』の開催を知り、受けさせていただくことに。既存グループへの加入という今までにない形でしたが、皆さんがすごく丁寧に僕たちのことを迎え入れてくださったので、番組期間中はノンストレスに過ごせましたし、候補生たちともライバルというより仲間意識が強く、高校時代を思い出すような、〝青春〟でした。
タイプロで再会後、まさか路己とユニットを組むとは思わなかったし、実はいまだにふわふわしてます。路己は本当の弟みたいな存在だから、仕事感があまり出ないんですよね(笑)。有明のショーケースでcHaRm(ファンの名称)の皆さんに直接お会いしたら、より実感が増すのかなぁとわくわくしてます。自分が思っていることや感謝を伝える手段が、僕には音楽しかないと思っていたけど、今後はROIROMの活動を通して、その幅をもっと広げたいです。それが俳優業にしろ、ずっと好きだったアートに携わる仕事にしろ、音楽以外にも色んなことにチャレンジさせていただいて、ちょっと漠然としてますけど、すべてを通して自分を表現できたらいいなと思ってます。
浜川路己
まだ何も成し遂げていない人生。これからの歩みで証明していきたい
ダンスが好きな気持ちだけで突っ走っていた毎日
生まれたての頃、母は僕が泣くたびにミルクをあげていて、そのためか、お医者さんに怒られるくらいビッグベイビーだったそう。12歳くらいまでは結構ぽっちゃりで、丸坊主でした。名前の由来は、自分の道を進んでほしいという意味が込められています。これは母も後から知ったそうなのですが、曽祖父の名前が寛路で、偶然同じ字を取ったのが運命的だよねって。自分でもお気に入りの名前です。大夢くんと同い年の5つ年上の姉がいて、幼い頃はよく言い争いながらも、一緒に遊んでいた記憶。物心ついた最初の記憶でよく覚えているのは、両親が布団の中に僕を入れて、ブランコみたいに揺らして遊んでくれたこと。あと母がよく言うのが、小さい頃の僕は「あのさー、うんとさー」が口癖だったみたいで、何かを話したそうで話しかけてくるのに何も話さない、みたいな(笑)。そんな感じでちょっと変わった子供だったようで、授業中もじっとできないことが多かったりしたんですけど、両親はそれも個性じゃんって感じで、自由に育ててくれました。もちろんダメなことはダメとちゃんと叱ってくれましたけど、なんでも周りに合わせようとしなくていいんだよってことは、母から教えてもらったことのひとつですね。
小さい頃は、飛行機を見に行くのが大好き! 毎週休みの日には空港の展望デッキまで連れて行ってもらって、飛行機を眺めていて、将来の夢はずっとパイロットでした。でもそれと同時に、歌うことも好きだったな〜と今になって思います。保育園のときに、マイケル・ジャクソンのCDをずっと聴いていたみたいで、当時はマイケルのことを知らなかったけど、『Thriller』や『Beat It』などよく聴いていた記憶があります。小学生のときは習字を習っていたのと、塾にも通ってました。運動神経があまりよくなかったから、スポーツをやりたいって思わなくて。得意な科目は社会。歴史が好きで、授業も楽しかった! でも成績はごくごく普通でしたよ(笑)。給食は沖縄ならではのマンゴーが出る日があったので、その日を特に楽しみにしてましたね。
小学校高学年になったくらいのとき、姉がアイドルデビューしました。身内が芸能人のスタート地点に立っているのを隣で感じて、当時はまだ何もわかってないですから、「姉がなれるなら僕もなれるんじゃないか!?」って勘違いして、そこからが始まりです。まず僕もダンスを習いたいって思って、ダンススクールに通い始めました。それで中1の頃かな、姉が沖縄のバスケの試合のハーフタイムショーに出ることになって、僕もバックダンサーとして出演したんです。そしたらたまたま韓国の芸能事務所の方で見てくださった方がいて、スカウトを受けて、それがきっかけで今まで以上に歌とダンスに真剣に向き合うようになりました。
高校を休学して、ひたすら歌とダンスに打ち込む日々。今思うと、当時はとにかく夢を叶えたい一心で突っ走ってた気がします。やりたいことを好きにやらせてくれた両親にも、すごく感謝してます。父も高卒認定は取ろうと思えばいつでも取れるし、今しかできないことがあると思うよって言ってくれて。あと僕が文武両道はできないことを知っていたので、後悔しないほうを選びなさいって感じでしたね。ダンスは特に楽しくて、練習すればするほど少しずつ上手くなっていく自分がいて、やればできるじゃんって、初めて自信を持てたことだったと思います。シンプルにダンスが好きだから、向き合うことが苦じゃなかったです。
一流を知り、プロとしての覚悟を持って未来を切り拓く
2年間ほど練習生として日本と韓国を行き来しながら過ごして、17歳のときに一度地元に戻りました。その後、大夢くんも一緒だった中国のオーディション番組に出ることに。1話で大夢くんと、タイプロにも出ていた西山智樹くんと3人でグループを組んで、パフォーマンスをしました。当時僕は、今以上にコミュニケーションが苦手だったのですが、ふたりとも優しく接してくれて、めちゃくちゃ助けられました。大夢くんとは同室だったので、悩み事もよく共有したし、信頼して話せることも多かったです。オーディション番組の特性上、そして外国という環境では、自己主張することが大切。皆さん謙虚ではあるんですけど、自分の意見をしっかり発言することが必要なんだなと、勉強になりました。僕も然り、沖縄ってシャイな人が多いんですよ。だから最初はなかなか慣れなかったんですけど、中国での経験でひと皮剥けたなと思います。
中国から帰国後、タイプロの開催を知り、これがラストチャンスと決意して、応募することに。3次審査で大夢くんと智樹くんと再会したときは、びっくりしました。知っている人が誰もいない環境って、かなり緊張するじゃないですか。僕は人見知りもひどいし、なかなか人の輪に馴染めないタイプなので、ふたりがいてくれて本当に心強かったです。タイプロ出演時は18歳で、高校も休学し、歌とダンスしかしてこなかった子どもで…。だからこそ、今まで周りで支えてきてくださった方たちに申し訳なさも感じていて、これを区切りに、恩返ししなきゃと思っていたところでした。タイプロでは、ステージを楽しむことの大切さを学びました。エンタメの世界で頑張ろうと思ったときに、技術とかそういうことばかりに囚われていたので、ハッとしましたね。あとは何よりも、第一線で活躍されている一流のプロの方々と一緒にリハーサルをしたり、パフォーマンスをすることが素晴らしい経験だったし、親身に相談にも乗ってくださって、たくさん勉強させていただいた期間でした。
今までの僕は、決してキラキラした人生ではなかったです。頑張って陽キャに溶け込もうとしていた陰キャだし(笑)。ひとりの時間が必要なタイプだから、どこか人に馴染めないのを自分でもわかってました。だからキラキラしてる人に憧れがあって、大夢くんはまさにそんな存在。今、ROIROMとして大夢くんと歩めていることがうれしいし、これからはプロ意識を強く持って、突き進まないといけないと感じてます。実はROIROMというユニット名には他にも候補があって。ひとつは「夢路」で、居酒屋っぽすぎるとボツに。あと僕がジャクソン5が好きで、5をつけたいと思って提案した「manten5」。100点満点に5をつけたんですけど、即却下されました。ファンの皆さんが呼んでくださっていた愛称がそのままROIROMとユニット名になって、本当によかったと思います(笑)。沖縄にどこにでもいるような、何者でもない僕を応援してくれる人がいて…卑下しすぎかもしれないけど本心で思うんですよ。でも、そんな僕でも誰かの役に立てているのかもって最近は感じられるので、可能な限りROIROMを長く続けて、cHaRmの皆さんと幸せを共有できたらいいなと思います。アイドルとして、見てくださる方のエネルギーの一助になれるように、存在から元気を与えられる人になりたいです!
PHOTO :Junghyun Kim ( TRON ) STYLING :Nao Nakanishi HAIR & MAKE-UP :Yusuke Tokita ( ECLAT ) INTERVIEW:Rie Eto EDIT :Mai Hamada WEB EDIT:Aoi Kubo








