なにを言われたのか理解するまで、数秒かかった。
消しゴム忘れたから、貸してくれない。そのくらいの重さの、声だった。
「土屋と付き合ってるわけじゃないんだろ? だったら俺でもいいじゃん。なあ、一回だけでいいからさ」
「……なに言ってるの?」
ようやく絞りだした声は、怒りで震えていた。
「付き合ってないからいいとか、そういう問題じゃないでしょ。それに、濱くんには真帆がいるのに。冗談でも、どうしてそんなことが言えるの? 気持ち悪いよ」
「気持ち悪いのはどっちだよ」
濱くんは、冷ややかにわたしを見下ろした。
「付き合ってないのに学校でああいうことやってる方が、異常だろ。まあ、異常といえば、俺らも異常かもな。こっちは付き合ってんのに、一度もしたことないんだから」
頭の上で、さやさやと葉擦れの音がした。
秋の夕方のひかりを浴びて、林全体が、ほんのりと燐光を放っている。
落葉も、樹々の幹も。濱くんの、茶色い眼も。
「半年も拒まれつづけてさ。俺はじゅうぶん待ったし、今もずっと我慢してる。なのに、間近であんなの見せられて。家に帰っても何してても、あのときの声がずっと残ってて、頭がおかしくなりそうなんだよ」
向かいあったわたしたちのあいだを、落葉の群れがゆっくりと落下してゆく。
ふりそそぐ金色のむこう側から、彼はまっすぐわたしをみていた。太く整った眉に、二重の瞳。あさく日焼けした肌は、上質な絖のように美しく、なめらかだった。
わたしを羽虫のように蔑みながら、一方では必死にすがり、求め、哀願している。こんな奇妙な視線を向けられたのは、初めてだった。
見つめ返しているうちに、嫌悪感と怒りに加えて、なにか得体の知れないものがこみあげてきた。
どれだけ卑怯で酷い男だとしても、このひとは、真帆の恋人だ。
その彼が今、真帆ではなく、わたしを見つめている。わたしを、求めている。
「ねえ、もしかして」
わたしは口をひらいた。
「最初からそういうことが目的で、真帆と付き合ってたの?」
彼はどうでもよさそうに呟いた。
「かもな」
頭のなかに、ふっと真帆の笑顔が浮かんだ。
にきびひとつない、すべすべした肌。愛らしい、口元のえくぼ。
──濱くんのこと、好きなんだね。
──うん。大好き。
こんなに無様に裏切られて。
かわいそうな真帆。あわれな、真帆。
「……いい気味だ」
呟いた拍子に、何かがぷつんとちぎれた。
せきとめられていた膨大な時間の記憶が、膿のようにあふれだしてくる。
まだほんとうに小さかったころ姉と三人で遊んでいたら、通りすがりの人に、真帆が瑞枝にそっくりのかわいい妹だと褒められたこと。中学に上がってクラスのグループができはじめると、わたしの手をあっけなくふりほどいて、とおくへいってしまったこと。人気のある男の子たちに囲まれて、満足げに笑い声をあげていること。そのくせ、都合の良いときだけ、甘えた声でわたしにすりよってくること。
忘れていたはずの些細な屈辱が、なだれのように押し寄せてくる。
今までわたしは、真帆のふるまいの理不尽さに気づいていないふりをしていた。いや、気づいていながら、受け入れていた。
真帆の方が、美しいのだから。「上」のグループにいるのだから。無意識のうちに、そう自分に言い聞かせてきた。
だけど、今。
わたしは生まれて初めて、真帆よりも高いところに立っていた。彼女は今頃、何が起こっているのかも知らず、のんきに遊びまわっているにちがいない。
なんて不憫なんだろう。なんて、滑稽なんだろう。体じゅうの血がぞくぞくと沸く。うねるような快感につつまれて、おなかの底が、みるみるうちに潤ってゆく。
一瞬、土屋くんの顔が浮かんだ。けれど、すぐにかき消す。濱くんの言ったとおり、土屋くんはわたしの恋人じゃない。体のなかの熱をぶつける相手が土屋くんでなければならない理由はどこにもないし、ましてや罪悪感なんて抱く必要もない。
わたしは濱くんの腕をつかんで、歩きだした。
「おい、どこ行くんだよ」
「さっき通り過ぎた倉庫。鍵が開いてたら、あそこでいい?」
濱くんがわたしを利用しようとするなら。わたしも、彼を利用するまでだ。
真帆への、ささやかな酬いのために。
*CanCam.jpでの公開はこちらまでとなります。続きは書籍でお楽しみください。
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
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