『もう二度と食べることのない果実の味を』第20話
週明けの今朝、担任から実力テストの答案が返却された。
用紙をひらいた瞬間、すうっと背筋がつめたくなった。
「冴、どうだった?」
いつもの調子で声をかけてきた由佳子は、わたしの顔をみると、気まずそうに口をつぐんだ。
結果は、さんざんだった。今まで五科目で四百点を切ったことは一度もなかったのに、今回は三百五十点にもとどいていない。黙って用紙をみせると、由佳子はびっくりしたようだった。
「えっ、ぜんぜん取れてるじゃん。落ちこむことないよ。平均もこえてるし、大丈夫だって」
大丈夫なんかじゃない。叫びたいのをぐっとこらえて、唇を噛む。
平均なんてどうだっていい。姉よりも、上か下か。わたしにとっては、それがすべてだ。
帰りのバスにゆられながら、膝に置いた答案用紙をぼんやりと見おろす。紙面は、空とおなじ朱色に染まっていた。
ずっと、どこかで過信していた。たしかに夏休みの勉強は、計画通りに進まなかった。それでも、今まで勉強したことは、多少なりともわたしのなかにきちんと積みあがっているはずだ。そう信じていた。信じたかった。
けれどテストは、磨き抜かれた鏡のように、目を背けていた自分の姿をうつしだす。すみずみまで。容赦なく。
家のドアをあけると、肉の焼ける匂いがした。キッチンに立つ母がふり返る。
「おかえり。今日は生姜焼きよ」
うん、と力なく答えて席につくと、玄関の方で物音がして、父があらわれた。
三人がそろったところで、料理の皿がはこばれてくる。いただきます、と手を合わせて、それぞれ箸を手に取った。
「あの」
食事が半分ほど済んだところで、わたしは言った。
「今日、実力テストが返ってきたんだけど」
父は手を止めて、顔をあげた。
「そうか。どうだった?」
どうせいつか話さなければならないのなら、早い方がいい。わたしは覚悟を決めて、足元のリュックから答案用紙を引っぱりだし、ひらいて見せた。
父の顔が、一瞬、けわしくなった。用紙を覗きこんだ母の表情が、さっと曇る。
ああ。このひとたちは慣れていないのだ。自分たちの期待が、裏切られることに。
食卓に、しばらく沈黙が落ちる。最初に口をひらいたのは、父だった。
「やっぱり、今からでも塾に行った方がいいんじゃないか」
わたしは首を横に振った。
「お姉ちゃんは、ずっとひとりで勉強してたから」
「でも……」
「いいじゃない」
母が、優しくわたしの手をにぎった。
「冴がそうしたいって言うなら、もうちょっと様子を見ても」
ね、と母は微笑んでみせる。
「今まで冴ががんばってきたこと、お母さんは知ってるから」
わたしは、まっすぐ母の顔をみつめた。口元はゆるんでいるけれど、褐色の瞳は微かすかにゆれている。母も、ほんとうは不安なのかもしれない。わたしの成績が、さらに落ちてしまわないか。
握りしめた答案用紙が、くしゃりと音をたてて潰れる。斜めに跳ねあがった赤い線は、ぱっくりひらいた傷口のようにもみえた。
あくる日の昼休み。授業が終わると、わたしはリュックから財布を取りだした。
「あれ、どうしたの?」
お弁当の包みをひらきながら、由佳子が訊ねる。
「ごはん買いに行くの。今日、お母さんが寝坊しちゃって」
朝、居間におりたときはびっくりした。いつもなら朝食の匂いにみちた明るい部屋が、今朝はカーテンすら開かれないまま、死んだように静まり返っていたのだ。途方に暮れて立ち尽くしていると、ばたばたと階段をおりてくる母の足音がきこえた。
きっと、ただの偶然だ。昨日のできごととは関係ない。それでも、どこかで母に責められているような気がして、差し出された昼食代を、わたしはうつむいたまま受け取った。
教室を出たわたしは、下足場で靴を履き替えた。九月に入っても、蝉の声は途切れない。陽ざしはあい変わらず凶暴な眩さで、グラウンドを白く灼いている。
額に噴き出す汗をぬぐいながら校舎に沿って歩いてゆくと、巨大な工場のような体育館がみえてきた。すぐそばの購買部には、ぽつぽつと人が集まっている。ほとんどが教師だったけれど、一人だけ、白いカッターシャツの生徒がいた。見慣れた横顔に、どきりとする。
「……土屋くん?」