彼の家も、元は山の方にあったらしい。父親はちいさな花屋をいとなんでいて、町じゅうの旅館やホテルに、季節の花を届けてまわっていた。
「父と仲の良いオーナーもたくさんいて、ホテル関係者のパーティにも、よく家族で招ばれてた。あの廃墟のホテルも、昔は父さんから花を買ってたんだと思う」
けれど景気が悪化するにつれて、取引先のホテルは次々に倒産していった。花屋の経営もじきにたちゆかなくなり、とうとう店を閉めることになった。
父親は精神的なショックとそれまでの疲労がたたって、店をたたむのとほとんど同時に倒れ、半年後に亡くなった。土屋くんはそのとき、五歳になったばかりだった。
店舗を兼ねていた自宅を売ったあと、美由さんは土屋くんを連れて、海辺の安いアパートに引っ越した。父親の遺したわずかな金が尽きると、美由さんは工場街のスナックで働きはじめた。
「名前で呼んでほしい、って言われたのは、その頃だった。おとうさんみたいに美由って呼んで、って」
父親が亡くなる前まで、美由さんはほとんど喋らない、とても無口な人だったそうだ。
花屋の奥に人形のように坐り、行き来する人びとの姿をじっとみつめる彼女の姿が、まなうらに浮かぶ。さばさばした若い女の子みたいな口調は、とつぜん放り出された社会で生き延びるために彼女が身につけた、薔薇の棘とげのようなものなのかもしれないと思った。あやういほど脆い、やわらかな武器。
できた、と彼が言った。きれいに皮をむかれた桃が、まないたにごろりと転がった。包丁の刃先に、琥珀色の果汁がひかっている。
「美由の分、先に残しておいていい?」
うなずくと、彼はていねいな手つきで金色の果肉を切りとり、小皿に盛った。まるで、神さまへのお供えもののように。
「土屋くんは、美由さんのこと、大好きなんだね」
なにげなく口にすると、彼は急に黙りこんでしまった。
何か変なことを言っただろうか。首をかしげるわたしに、桃の載った皿を無言で手渡す。
礼を言って口にふくむと、果肉に土屋くんのゆびさきの体温がのこっていた。ひときれごとに、甘い果汁が舌にぬるくひろがり、咽喉の奥へとおちてゆく。
「……いつも、逃げだしたいって思ってる」
ぽつりと、土屋くんが呟いた。
「逃げたいって、なにから?」
「美由も、家事も、受験勉強も。ぜんぶ放り出してしまいたい」
せきを切ったように、彼は喋りだした。
「怖いんだよ。この先、ちゃんと美由を守っていけるのか。どんなに頑張っても、報われるとはかぎらないのに。父さんみたいに、自分じゃどうにもできないような理由で、いつかぜんぶが無駄になってしまうかもしれない」
激しい剣幕に気圧されながら、わたしはべつのものを思い浮かべていた。夕暮れに佇む廃墟のホテル。ひっそりと言葉を交わす、両親の低い声。
上へ、上へ。ひたすら勉強に励んでも、毎日きちんと働いていても、巨大な流れにのまれてしまえば、つみあげてきたものはたやすく押し流され、あとかたもなくほろんでしまう。
「美由を守らないといけないっていう気持ちすら、それが自分の意志なのか、そう思いこもうとしているだけなのか、もうわからなくなってる」
かつ、かつ、と小皿のふちを指先でこきざみに弾く。
「一秒もいっしょにいたくないって思うときもある。あの人にはもう僕しかいないのに。大事に、したいのに」
そこまで言うと、土屋くんはおもむろに小皿の桃をつかんで、かぶりついた。あふれた汁が、唇の端から顎へと伝う。呆気に取られていると、土屋くんはわたしに小皿を差し出した。
それからわたしたちは、黙々と桃をほおばった。皿の上の果肉がなくなると、土屋くんはあたらしい桃をむいてくれた。腐る直前まで熟しきった、とろけるように甘い肉。
獣のようにむさぼっていると、どん、と地響きがした。アパートの壁が、みしりと揺れる。花火が始まったのだろう。唇についた汁を拭いながら、わたしはぼんやりと思った。もうほとんどお金のないはずのこの町が、観光客をあつめるために、あえぎながら宙に吐きだす美しい花弁。
顔をあげると、口元をびしょびしょに濡らした土屋くんが、澄んだ目でわたしをみていた。果肉を噛みながら、彼をみつめかえす。
ふたたび、どん、と鳴る。それが合図だったかのように、わたしたちは唇をかさねた。最初は浅く。やがて深く、ふかく。果粒をふくんだ汁が、唇のあいだでぬるりと擦れる。土屋くんは部屋の電気を消して、窓の近くにわたしを押し倒した。
まくりあげられたシャツの下を、彼の唇が這う。歯列のすきまから覗いた舌が、乳頭をなでる。呼吸がみだれ、肌が朱く滲む。どん、どん、と立てつづけに、また爆ぜた。あおむけのまま首を傾けて、ベランダを仰いだけれど、花火は全くみえなかった。夜空の端だけが、火薬で淡く烟っている。
ふと、姉の姿が頭に浮かんだ。よく似た顔で笑う、美由さんも。
わたしも土屋くんも、強烈なひかりを放つ女たちの陰で、それぞれ生きてきた。いつ崩れおちるかもしれない世界で、どこにもゆけないまま、ちっぽけな足場を必死にこしらえてきた。
わたしは体を起こし、土屋くんのズボンに手をかけた。下着ごと引きずりおろすと、そそりたった性器があらわになった。土屋くんの瞳が、みるみるうちにとろけて、うるんでゆく。
──いつも、逃げだしたいって思ってる。
逃げてもいいんだよ。心の内で、わたしは答える。
今だけは、ぜんぶ忘れて。できるだけとおくまで、いっしょに逃げよう。
どん、と何度目か、花が散った。華やかな天のひかりに、きっとだれもが夢中になっている。わたしは暗がりのなか舌をのばし、彼の性器の先端に、ゆっくりとくちづけた。
雛倉さりえ
1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。
写真:岩倉しおり
本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
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(c)Sarie Hinakura・小学館