『もう二度と食べることのない果実の味を』第8話
帰宅したわたしは、いつものように両親と夕食を摂った。帰りが遅くなったことを咎められるのが怖くて、急いで食事を済ませる。
入浴後は自室にこもって、勉強道具を机の上に広げる。けれど、ノートをひらいて十分も経たないうちに、わたしはペンを投げ出した。数式も、英単語も、年号も、ぜんぜん頭に入ってこない。
椅子をきしませて、ぼんやりと天井を見あげた。ゆびさきで唇にふれると、たちまち土屋くんの体温がよみがえってくる。
一日のうち、彼と会っている時間は三十分にも満たない。けれどその短いひとときが、まるで湖に投げこまれた石のように幾重にも波紋をひろげ、とおく離れた時間までもをひずませる。
一週間前の自分が、いまのわたしを見たらどんな顔をするだろう。夏休みという大事な時期に何をしているんだと、怒り狂うだろうか。それとも、おぞましいものをみる目つきで、わたしを見下ろすだろうか。
でも、もう戻れない。
わたしと土屋くんは、知ってしまった。体にたまった熱の吐きだしかたを、覚えてしまった。
彼と唇をかさねているあいだ、わたしはからっぽになれる。やわらかな土にどんどん沈んでゆくような、とめどない快感。あの瞬間が欲しくて欲しくて、たまらなかった。
ずくん、とおなかの底が疼く。パジャマのうえから、そっと下腹部に手をあてた。そのまま、指先をゆっくりと下におろしてゆく。
くちづけだけじゃなくて。
もっと深いところまで沈んでゆける方法が、ほかにあるんじゃないのか。
ざわざわと、山の樹々がゆれている。黒い海が、ゆっくりとふくらんでゆく。液体のような闇にのみこまれてゆく街の景色を、わたしはぼんやりと見つめつづけた。
「冴、今日の夕方、ちょっと早めに帰ってこられる?」
夏休みが始まって、一週間が経った日の朝。トースターで食パンを焼いていると、横でテレビを見ていた母が言った。
「いいけど、なんで?」
「瑞枝が戻ってくるのよ。今日明日しかいられないみたいだけど」
お正月以来ねえ、と母は楽しそうにつづける。
「天気も良いし、裏庭でバーベキューしようと思って。あ、真帆ちゃんに来てもらってもいいわよ。お肉いっぱい買ったから」
「うん。いま訊いてみる」
わたしはスマートフォンで、メッセージアプリを立ちあげた。画面をスクロールし、「*MaHo*」を探しだしてタップする。前にみたときは猫のキャラクターだったアイコンは、いつのまにか、手をつないだ男女の影の写真に替わっていた。もしかして濱くんだろうか、と思いながら、文字を打ちこむ。
『ひさしぶり。お姉ちゃん、今日の夕方に帰ってくるって。よかったら、夕ごはん食べにくる?』
送信すると、一分もしないうちに返事がきた。色つき文字と絵文字がたっぷり使われた、カラフルなメッセージ。