『もう二度と食べることのない果実の味を』第16話
終点近くでバスを降りると、つんとした磯の匂いが鼻先をかすめた。
この辺りの地区に来るのは、たぶん初めてだ。あたりには、うすよごれたクリーム色の公団と、味気ない灰色の寮らしい建物が、まばらに建ち並んでいた。
道のさきには、古い校舎が静かにそびえている。夏休み中だからか、生徒の姿は一人もない。修理中の窓硝子、荒れた前庭、校門の落書き。
「あれが岡商」
隣の土屋くんが教えてくれる。学校の塀に沿って細い道を歩いてゆくと、古い住宅地に出た。平屋と平屋に挟まれて、傾ぎかけた二階建てアパートが建っている。壁は枯れたアイビーで覆われていて、まるで大量の瘡蓋がびっしりとはりついているようだった。
気味の悪い廃屋だな、と思っていると、土屋くんが足を止めた。
「ここの二階」
絶句するわたしを置いて、土屋くんは平然と進んでゆく。いまさら引き返したいとも言えず、仕方なく彼を追いかけた。
塗装の剥がれた三輪車。雨水のたまったバケツ。育ちすぎたカポックの鉢植え。狭い庭に散乱したゴミを踏み越え、階段をのぼる。
廊下のつきあたりのドアをあけ、土屋くんはさっさと中に入ってゆく。倣って一歩踏み出したとたん、きつい煙草の匂いが肺をえぐった。咳きこみながら玄関を見わたすと、ヒールやブーツ、ミュールが、あちこちに転がっている。自分のスニーカーを揃えてから、「お邪魔します」とおそるおそる上がる。
廊下の先の和室は、わたしの部屋と、そう変わらない広さだった。黄ばんだ畳と、色いろ褪せた壁紙。女性ものの服やタオル、ゴミ袋、端のほつれた豹柄のクッション。安っぽいプラスチックのローテーブルの上には、ピンク色の灰皿と、のみかけの入った紙コップが載っている。
左右はふすまで閉じられ、向かいにはベランダへつづくらしい窓があいていた。部屋の隅の仏壇には、若い男性の写真が置かれている。
土屋くんは「お茶もってくる」と、右手のふすまを開けて出て行った。
こんなに散らかった家をみたのは、初めてだ。どこに坐ればいいのかもわからず立ち尽くしていると、左のふすまがすうっと開いた。
土屋くんかと思って顔をあげると、目の前に、見知らぬ女が立っていた。
わたしはかろうじて、悲鳴をのみこんだ。
「だれ?」
子どものような声だった。