【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』最終話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されました。CanCam.jpでは大型試し読み連載を配信。危険な遊びへ身を投じたふたりの運命、そして待ち受ける結末とは……。

*第23話~28話(最終話)は、掲載日から2019年5月14日(火)までの期間限定公開です。

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【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』最終話


もう二度と食べることのない果実の味を

 バスをおりた途端、ひんやりした風が頬をなでた。

 三月も半ばとはいえ、空気の芯にはまだ冬のにおいが残留している。前を歩く観光客の団体のあとを追うようにしばらく坂道をのぼってゆくと、やがて重厚な石づくりの門がみえてきた。全国展開しているリゾートホテルの名前が、流れるような美しい英字で刻まれている。

 何年も、何十年も、ずっと見上げつづけてきたホテル。実際に足を踏み入れるのは初めてだ。そびえたつ塔にも似た建物をぼんやり眺めていると、かっちりした制服を着こんだドアマンが、木製の扉をあけてくれた。

 最初に目に飛びこんできたのは、天井から吊るされた巨大なシャンデリアだった。まるで人工の天体のように君臨しながら、金色のひかりでロビーラウンジを充たしている。厚い絨毯を踏みながら辺りを見わたしていると、「冴!」と声がした。

 ふりむくと、瑞枝だった。

「ごめん、遅くなった」
「大丈夫、私がはやく着きすぎただけ」

 席にむかって歩きながら、うっとりとつづける。

「素敵でしょ、ここ。スイーツもおいしいみたいで、一回たべてみたかったんだよね。つきあってくれてありがとう」

 席について向かいあうなり、瑞枝がびっくりしたように言った。

「冴、すごく肌きれいになったね」
「そうかな」

 わたしはそっと、額にふれた。間食を控え、瑞枝からもらった洗顔料とクリームをつかいはじめると、あれほどしつこくはびこっていたにきびは、すこしずつ姿を消していった。いまは微かな凹凸がのこっているだけだ。

「でも、痕がなかなか消えなくて」
「そう? あんまり気にならないけどな。どうしても嫌なら、大人になったら化粧すればいいよ。うまく隠す方法は、いくらでもあるから」
「お姉ちゃんも、隠してるの?」
「もちろん」

 悠然とほほえむ姉の肌は、なかに透明な焔を仕込んだ陶器のようだった。なめらかで、傷痕ひとつみあたらない。まじまじと眺めていると、やがてハイティースタンドがはこばれてきた。

 三段重ねの器の上に、宝石のようなお菓子が載っている。キャラメル色のスコーンに手をのばしかけたとき、「あっ」と姉がとつぜん声をあげた。

「ごめん。いちばん最初に言わないといけなかったこと、忘れてた」

 瑞枝は紅茶のカップをテーブルに置き、まっすぐわたしを見つめた。

「冴、合格おめでとう」

 媚びても臆してもいない、いつもどおりのやわらかな声。

 わたしは、ちいさく微笑んでみせた。

「ありがとう」

 わたしが春から通うことになるのは、併願で受けた隣町の私立高校だ。

 第一志望の公立高校は、不合格だった。

 当然といえば、当然の結果だった。夏休み以降、ほとんどまともに勉強できていなかったのだから。年が明けてからはひたすら勉強に没頭したけれど、結局とどかなかった。

 結果発表以来、学校の担任も、両親も、由佳子も、周りの人々は腫れものにさわるようにわたしに接してきた。けれど、わたし自身はそれほど傷ついていなかった。

 わき目も振らず勉強しつづけて費消した二ヶ月間。受験番号がなかったときの、痛みに似た衝撃。すべて、自分自身によってもたらされたものだ。この一年近く、わたしがわたしに対して犯した罪が、そのまま罰として戻ってきただけ。

 いまは傷心したり、自分を憐れんだりしている場合じゃない。これまでしてきたことの結果を静かに受け入れ、前を向くこと。それだけがきっと、何年も努力を重ねてきた自分自身に対するつぐないになる。

「そういえば、真帆ちゃんは元気?」

 スコーンをつまみながら、瑞枝が訊ねる。

「あいかわらずだよ。四浜に受かったって」
「じゃあふたりとも、春から女子高生だね」

 ずっと距離を取りつづけてきた真帆とは、卒業式の日にすこしだけ言葉を交わした。いまは塾の冬期講習で知り合った男の子と連絡を取りあっているのだと、うれしそうに喋っていた。

「濱くんとは、会ってないの?」とおそるおそる訊ねると、「最初は悲しかったけど、今、すごく楽しいからもういいの」とすこやかな笑顔をみせた。

 きっと真帆はこの先も、失恋さえもが甘やかに照りひかるあかるい場所で、幸福な恋愛をわたり歩いてゆくのだろう。ふいにこみあげてきた離別の予感をおし隠すように、わたしは口をひらいた。

「そういえばお父さんも、おめでとうって言ってくれたよ。頑張ったな、って」

 そっか、と姉は目を細めた。

 父は今、隣町で友人が経営するレストランを手伝っている。給料が少ない、機器がない、と文句ばかり言っているけれど、「なんだかんだ毎日楽しそうなのよね」と母は笑っていた。

 わたしはちいさく息を吸い、それから切り出した。

「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「あのときはごめん。覚えてないけど、わざわざ東京から戻ってきてくれてたんだよね」

 あの日、吹雪の夜が明けてから、わたしはなんとか一人で帰宅したらしい。らしい、というのは、熱のせいでほとんど何も覚えていないからだ。

「謝らなくていいよ」

 姉は言った。

「冴が無事だったならそれでいい。お父さんもお母さんも、怒ってなかったでしょう」

 わたしは頷いた。

 数日して熱が下がると、父はわたしにひと言だけ、静かに告げた。

 ──どれだけ心配したと思ってるんだ。

「そういえば、お姉ちゃんも家出したことあったんだっけ」

「未遂だけどね」と瑞枝は笑った。

「大学受験の直前だった。期待されるのが、苦しかったの。家族にも先生にも、この子はしっかりしてる、なんでもできる、って言われつづけてきて。でも本当は、できるふりをしているだけ。昔も、今も」

 瑞枝はカップを傾け、ひとくち紅茶をふくんだ。濡れた唇が、よじれるようにひらく。

「いつか全部裏切ってやる、って思ってた。みんなが目指しているのとは真逆の方向へ駆けてゆければ、きっときもちいいんだろうなって。でも、できなかった。土壇場で怖くなって、足がすくんだの。もし、あのとき隣にだれかがいてくれたら、踏み出していたかもしれない」

 どきりとした。

 あの夜以来、土屋くんとは一度も連絡を取っていなかった。何度か学校ですれ違ったけれど、目も合わせない。まるで最初から何もなかったみたいに、彼は授業中も休み時間も、一心不乱に勉強していた。

 卒業後も連絡が来ることはなく、第一志望の高校に彼が合格したのかどうかすら、分からないままだ。メールを送ってみようかと思ったけれど、やめた。

 土屋くんにはもう、会わない方がいい。いや、会ってはいけない。わたしに、そんな権利はない。彼の人生を、これ以上邪魔してはいけない。

 ──昇っていくみたい。

 いつか、彼がそう呟いたあの瞬間。わたしの価値観も、くるりと反転した。

 ほんとうはこの世界に、上も下もなかったのだ。

 区別されているようにみえたとしても、それは幻にすぎない。きっかけひとつで上は下に、下は上にたやすく転じる。

 けれど、上下の区別のない世界は、しあわせな理想郷なんかじゃない。混沌とした平坦な世界に投げ出されたわたしたちは、地図もないまま、目の前に置かれた道を進んでゆくほかないのだ。

 決してまじわることのない、それぞれの道を。

「お姉ちゃん。今でも、逃げ出したいと思うときはある?」

 瑞枝は、首を横に振った。

「結局、私はどこにもいけないのかもしれないって、思うようになったから。たとえ世界の涯はてまで逃げたって、〝逃げた自分自身〟からは逃げられない。それに今は、守っていかないといけないものもあるし」

 言いながら、そっと下腹部に手を置く。もしかして。思わず口をひらきかけると、姉は微笑んだ。

「赤ちゃんが、いるのよ」

 きゅう、とおなかの奥が縮まった。

 遠く懐かしい、痛みのような、せつないような、奇妙な疼き。

 わたしは疼きをふり払い、心の底から湧きあがってきたきもちを、笑顔で言葉にのせた。

「おめでとう、お姉ちゃん」

 

*

 

「さえちゃん」

 舌足らずな声で呼ばれたのは、大通りの横断歩道を渡っているときだった。わたしの手をぎゅっと握ったまま、千絵は幼い声でつづける。

「あれ、なに?」
「ん? どれのこと?」
「なんか、きこえる」

 坂道をゆっくりとくだりながら、わたしは耳をすました。喧騒の底に、にい、みい、と滲むような声が微かにきこえる。

「たぶん、うみねこじゃないかな。海も近いし。ちいちゃんは耳がいいね」
「ねこなの?」
「名前だけね。うみねこっていう鳥」

 近道をくだりきると、ながい防波堤につきあたった。千絵を抱きかかえて階段をのぼると、とたんに景色が展けた。

 八月の日曜日。白い砂浜は、色とりどりのテントで埋め尽くされていた。淡いみずいろの海面はタフタ生地のようにやわらかくうねり、ところどころに銀色のひかりの斑が散っている。波間にはヨットの帆がおだやかに揺れ、清潔な海水浴場には、ビーチバレーをする子どもたちの歓声がひびいていた。

 青い海と白い浜。ノスタルジックな温泉の看板。SNSに投稿された写真がきっかけで、今この街は、若い人たちにじわじわと人気が出ているそうだ。

 チェーンの飲食店が次々に空き地を埋め、おしゃれなカフェやホテルもずいぶん増えた。商店街も活気を取り戻し、観光客の数は、年々右肩あがりらしい。景気がいいのは喜ばしいことなのだろうけれど、すっかり変わってしまった町並みをみていると、心臓がすうっと色をなくしてゆくような、妙にさびしい気持ちになる。

 海の家でソフトクリームを買い、日陰のベンチに腰かけてふたりでたべた。午さがりの空気は洗いざらしの布地のように白っぽく乾いている。遠くのホテル群は燻されたようにゆらいでみえた。花弁みたいな水着を身につけた女の人たちが、笑いながら歩いてゆく。

「暑いのに、みんな元気だねえ」
「四歳児のくせに、なに年寄りくさいこと言ってんの」

 もっちりとした頬を指でつつくと、千絵は瑞枝によく似た大きな瞳をほそめて笑った。
 実家に帰省して、そろそろ一週間が経つ。今年は、姉の帰ってくる日程とちょうど重なっていて、姪の千絵に会うこともできた。毎日の習慣だった千絵との散歩は、けれど今日で最後だ。今夜の夜行バスで、わたしは東京の下宿に戻る。

「もっとゆっくりしていけばいいのに」と母は不満そうだったけれど、大学の夏季休暇は世間が思っているほど長くない。来年には就職活動もはじまる。今年はめいっぱい、東京にいる彼氏や友だちと遊んでおきたかった。

 ゼミのみんなにおみやげでも買っていこうか、とぼんやり考えていると、向こうから一人の背の高い男が歩いてくるのがみえた。黒い無地のティーシャツと、カーキ色のクロップドパンツ。

 何の気なしに眺めていた、そのとき。

 唐突に、わたしは気づいてしまった。

 ぼさぼさの黒髪に、不健全なほど白い肌。

 ああ。まちがいない。

「さえちゃん?」

 おもわず動きを止めたわたしを、千絵がふしぎそうに見上げる。

 なんでもないよ。そう言おうと口をひらいたのに、声がうまく出てこない。

 明るいひかりのなか、異物のようなその男はゆっくりと歩いてくる。十メートル。五メートル。三メートル。わたしは覚悟を決め、ベンチの上でぎゅっと身を固くした。

 次の瞬間、彼はわたしの目の前を、通りすぎていた。

 立ち止まることも、こちらに視線を向けることもなかった。まっすぐ前を向いたまま、歩調をゆるめることなく歩いてゆく。

 遠ざかってゆく背中をみつめているうちに、咽喉の奥から、泥のような熱のかたまりがこみあげてきた。

 あの頃、わたしたちはどうかしていた。

 十五歳のあの夏、あの時間、あの街のなかで生まれ、死んでいった、恋と呼ぶにはあまりに醜くいびつな、ふたりだけの世界。

「さえちゃん、どうしたの?」

 微動だにしないわたしに、千絵が不安そうに訊ねる。

「ごめんね。なんでもないよ」

 安心させるようにちいさな頭を撫で、わたしはベンチから立ちあがった。

 浜辺は、午後のひかりにまばゆく灼きつくされていた。敷きつめられた白砂が、ほんのりと光っているようにもみえる。はるか遠くでは陽炎が、夢のようにゆれていた。

「あっち行きたい」

 千絵はそう言い、ホテルの連なる遠い浜を指さした。土屋くんの歩いていった方とは、真逆の方向だ。

 歩きはじめる前に、わたしはもういちどだけ、うしろを振りかえった。ひとびとの笑い声がぼんやりとひびきわたっているだけで、黒い背中はどこにも見あたらなかった。

 道はもう二度とまじわらない。記憶は日々薄れ、一秒ごとに遠くなってゆく。

 それでも、忘れないでおこうとおもった。はじめてふれたくちびるの感触を。彼の頬からながれた血のいろを。らせん状に落下してゆく果皮の美しさを。もう二度と、たべることのできない果実の味を。

「いいよ。行こう」

 千絵の手を取って、わたしは言った。

「行けるところまで、いっしょに行こう」

 どんなにぼやけ、綻んだとしても、最後まで残りつづけるものは、きっとある。

 決してとどかないかわりに消えることもないあの日々を、傷痕のように抱えたまま生きてゆこうと思った。

 龍のいなくなった、この世界で。

 

 わたしは千絵の小さな手をにぎり、それから、まばゆいひかりのなかへ足を踏み出した。

 

 

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雛倉さりえ

1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。

 

写真:岩倉しおり

本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
この文章の無断転載、上演、放送等の二次利用、翻案等は、著作権上の例外を除き禁じられています。

(c)Sarie Hinakura・小学館

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