【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』第23話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されました。CanCam.jpでは大型試し読み連載を配信。危険な遊びへ身を投じたふたりの運命、そして待ち受ける結末とは……。

*第23話~28話(最終話)は、掲載日から2019年5月14日(火)までの期間限定公開です。

「たべかじ」連載一覧

【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』第23話


もう二度と食べることのない果実の味を

 じんじんと、頬が熱をもっている。痕にならないといいな、と思いながら、くちのなかで舌をうごかした。血の味はもうほとんど消えている。

 倉庫の底でひとり寝転がったまま、わたしはぼんやりとまばたきした。まだ十分も経っていないのに、ここに入ってきたときの記憶はこまぎれだ。

 たやすく開いた扉と、湿った黴の匂い。磨り硝子から斜めに射しこむ、ほそい夕陽。スローモーションのように倒れこむ、ふたりの影。ひかりのなかに、濛々とたちこめる白い埃。スカートを脱がす手は、土屋くんよりずっと黒くて、大きかった。

 汗で湿った指が、ぬるりと太腿を這う。太いゆびさきが、乱暴に下着を引きずりおろす。かちゃかちゃとベルトを外す音をききながら、わたしは目を閉じた。

 けれど、いつまでたっても、濱くんが触れてくる気配はなかった。おそるおそる瞼をあけると、彼は、ズボンと下着を脱いだ格好のまま、かたまっていた。

 目が合うと、怯えたように肩を震わせる。

「おまえ」

 ごくり、と唾をのむ音がひびく。

「ほんとに、いいの?」
「え?」

 いまさら、何を言っているんだろう。訝しく思ったわたしは、体を起こした。傾いだ陽ざしのなか、萎えた性器がゆれている。

 もしかして。わたしは口をひらいた。

「怖気づいた?」

 次の瞬間、目の前が白く眩く らんだ。

 頬が熱い。口のなかに、濃くて深い味がむっと広がる。殴られたのだと理解するまで、数秒かかった。

 濱くんは荒く息を吐きながら、もたつく手で服を整えた。

「誰かに言ったら殺す」

 そう言い捨て、彼は倉庫を出て行った。

 殺す、なんて。そんなこと、実際にできないくせに。

 黄ばんだ天井を眺めながら、わたしは長いため息を吐いた。

 ぎりぎりの淵までわたしを連れてきておいて、結局、自分ひとりで逃げ出した。そんなひとに、これ以上なにかできるはずがない。

 ゆっくりと体を起こして、足元に落ちていた下着を拾って身に着ける。乱暴に引きずり下ろされたせいか、スカートのホックが外れかけていた。ため息を吐いて穿き直し、倉庫を出る。

 外は、すでに昏くなりかけていた。淡い紫とブルーがいりまじった空に、疎林の枝々が、くろぐろと浮きあがっている。

 いっしょに落ちてくれるならだれでもいいと、思っていた。けれど、やっぱり、土屋くんしかいないのかもしれない。最後の一線を、ためらいなく、いっしょに越えてくれるひと。まっすぐわたしを貫く彼の熱が、今は無性に恋しかった。

 樹々の底に立ち尽くしたまま、わたしは夜に浸されてゆく空を眺めつづけた。

 

 

 まっかに紅葉した欅の葉が、はらはらと火の粉のようにおちてゆく。

「次、山下。問いの二十二」

 ぼんやり窓の外を眺めていると、吉野先生の声がした。あわてて数学の教科書に視線を戻したけれど、解答どころか、今ひらいているページが合っているのかすら自信がない。

「わかりません。すみません」

 ぼそりと答えると、先生は苛立たしげに息を吐いた。

「分からないわけないだろ。基礎中の基礎だぞ。……じゃあ中尾」

「はい」と隣の由佳子が応える。わたしはふたたび、ずるずると机に頬をつけた。

 結局、あのできごと以降、濱くんが声をかけてくることはなかった。何事もなかったかのように、目も合わさない。

 そのうち、濱くんと真帆が別れたらしい、という噂を耳にした。「振ったのは濱くんだって」と由佳子は話していたけれど、本当かどうかはわからなかった。真帆は何か話したそうな顔で、ことあるごとにわたしを見てくる。けれど、わたしは彼女を避けつづけていた。濱くんの話を聞かされるのが面倒だという気持ちもあったけれど、理由はそれだけじゃない。

 授業後、後片付けをしながら吉野先生が言った。

「山下。ちょっと来い」

 どきり、と心臓が疼く。たしか彼は、生活指導も兼ねていたはずだった。