『もう二度と食べることのない果実の味を』第1話

17歳で「女による女のためのR-18文学賞」で鮮烈なデビューを飾った作家・雛倉さりえさんの最新作『もう二度と食べることのない果実の味を』(通称:たべかじ)が4月16日に刊行されます。CanCam.jpでは、この衝撃作品の試し読み連載を開始。どこよりも早く、作品をお届けします。

『もう二度と食べることのない果実の味を』第1話


 体の奥に、一本の河がながれている。ねっとりと汚く濁った、乳色の河。

 腐りかけた果実のような、官能的なあまい匂いをはなちながら、河は骨のすきまを、臓器のあいだを、太く、細く、ときによどみながら、ながれつづける。

 河はしだいに、姿を変じてゆく。さざ波は鱗に。飛沫は、無数の肢に。長大な胴にはいつしか意志がやどり、わたしの体のなかで暴れだす。狂ったようにのたうち、あたり一面を傷つけながら、「それ」は出口をもとめて、のぼりつめてゆく。

 肌の上へ。地上へ。

 境界線をこえて、あふれだすために。

 

*

 アラームが鳴る前に、目が覚めた。

 頭が重たい。わたしはため息を吐つ いて、ごろりと寝返りを打った。

 なにか、ひどく恐ろしい夢を見たような気がする。内容はおぼえていないのに、からだの中でなにかが蠢くような、不快な生々しい感覚は残っている。奇妙でうす気味の悪い、夢のなごり。

 ふいに電子音がひびきわたった。充電コードから引きちぎるように、スマートフォンを手にとる。午前六時。中学の始業は九時だけれど、三年生になってからは早めに登校して、人の少ない教室で勉強することにしている。アラームを切ってから、わたしはのっそりと体を起こした。

 半袖のセーラー服に着替えて階下におりると、台所に母が立っていた。足音に気づいたのか、菜箸をもったまま「冴、おはよう」とこちらにふりかえる。

「あれ、顔色悪くない?」
「なんか最近、目覚めが悪くて」
「疲れてるのよ。最近、遅くまで勉強してるでしょ。今日は早めに寝たら?」

 母の声に「そうしようかな」と返し、目玉焼きとトーストで手早く朝食を済ませる。皿を流しに置いてから、洗面所へむかった。

 前髪をピンで留め、こわごわ鏡を覗きこむ。その瞬間、大きなため息が洩れた。

 額の隅にこんもりと膨れあがった、うすいピンク色のにきび。朝晩ていねいに洗顔しているのに、数日前から治る気配がない。それどころか、顎のまんなかにも、あたらしくにきびができている。ぷつりと浮きでた、ちいさな白にきび。はりつめた皮膚のむこうに、汚い脂肪が透けてみえる。

 増えつづけるにきびが、最近のわたしの悩みだった。ようやく治ったと思っても、またすぐに次のにきびが生まれてくる。まるで、皮膚の下におびただしい数の皮脂の種が埋まっているようだった。顔のあちこちでつぎつぎにひらいてゆく、膿と角質でできた醜い花。

 わたしは、窓辺の棚からピンセットを手に取った。ステンレスの鋭利な先端をおしあて、薄くなった皮膚の頂点をそっと破る。芯になっている脂肪の粒をつまんで引き抜くと、痒かゆみにも似た痛みが、肌の表面をちりっとはしりぬけた。

 下手にさわるより放っておいた方が治りが早いということは、いままでの経験から充分わかっている。けれど、皮下にかくれたものを外にひっぱりだす瞬間がきもちよくて、つい弄ってしまう。

 鏡をみると、芯を掘りだした箇所の皮膚が、赤く炎症を起こしていた。かすかに滲んだ血と、内心の後悔をごまかすように、わたしはつめたい水で顔を洗った。

 

 

 ローファーを履いて家を出たとたん、夏のまばゆい陽射しが目にとびこんできた。わたしは階段をおりて門を閉め、家の前の急な坂道をどんどんのぼってゆく。セイタカアワダチソウ、葛、エノコログサ。ガードレールの下にあおあおと茂った夏草のりんかくが、琥珀色に透けている。

 わたしたちの町は、海と山のあわいにある。海にむかってなだれこむようにそそりたつ山々の、斜面にしがみつくようにして住宅や商店が建っているのだ。地形のせいで、とにかく町には坂が多い。自転車を使っている人はほとんどおらず、住民たちはバイクか車で移動する。

 バス停は、駅へ向かうサラリーマンと、早起きのお年寄りたちで賑わっていた。わたしはベンチのうしろの柵にもたれて、町の景色を見わたした。地面に繁殖するみたいにびっしりと並んだ家々の屋根が、金色の靄の底でゆれるようにかがやいている。ところどころに目立つ背の高いビルや、緑青色のふるびた瓦屋根は、ホテルや旅館の建物だ。

 このあたりには、昔から温泉が湧いている。町を歩けば、すぐわかる。鉱物と、湯の泡のにおい。アスファルトの下をながれる、暗渠の水音。建物のすきまから噴きだし、宙にたちこめる乳色の烟。七月の朝のすこやかなひかりの下でも、熱い泉をふところに抱えこんだ町はどこか仄暗く、しっとりと濡れているようだった。

 時間ぴったりに、坂道の向こうから一台のバスがあらわれた。定期券をかざしてのりこみ、いちばん奥の座席に腰をおろす。窓をみると、眼下の町の遥か先に、群青色の海がひろがっていた。

 海のそばの土地は、見晴らしのいいおだやかな区域と、岩が多く波の荒い地帯に分けられて、前者の土地にはホテルが、後者にはクリーム色の公団と工場の寮がぽつぽつと建っている。

 小学生の頃は、おさななじみの真帆と砂浜や潮だまりで遊んでいたけれど、いまはそんな時間も余裕もない。山のふもと近くにある家と、中腹の中学校を往復する毎日だ。

 わたしは窓から目を逸らし、リュックから取りだした単語帳をめくりはじめた。バスはのろのろと、坂道をのぼってゆく。

 

 

 朝の校舎は、陽ざしを浴びて白々とひかっていた。グラウンドからは、朝練をしている運動部の生徒のかけ声がひびいている。

 三年二組の教室のドアをあけると、右端の席に生徒がひとり、坐っていた。

 土屋くんだった。ぼさぼさの黒髪に、細いフレームの眼鏡。机に頬をつけるような独特の姿勢で、一瞬一瞬をむさぼるようにひたすらペンを動かしている。

 朝の時間も、昼休みも、放課後も、いつも勉強ばかりしていて、ほかの生徒と喋ったり笑ったりしているところは見たことがない。最初は、男子たちが「ガリ勉」などとからかっていたけれど、土屋くんが全くの無反応なので、じきに飽きて彼にかまうのをやめた。せっぱつまったように机にかじりつく土屋くんに、いまはだれも近づこうとしない。わたしも毎朝こうして顔をあわせるけれど、会話を交わしたことは一度もなかった。

 彼から視線を外し、自分の机に勉強道具をならべる。人より早く登校して勉強するのは、自分を安心させるためでもあった。早起きのためのささやかな労力と苦痛でさえ、なにかとくべつなもののように思えた。

 だいじょうぶ。わたしは、ちゃんとやっている。こうして毎日、たしかなものを積みあげている。そう心のなかでつぶやきながら、クラシック音楽をつめこんだスマートフォンにイヤホンをつなぎ、目の前の参考書に意識を向けた。

 英単語の暗記、文法の復習、読解。ふと顔をあげると、だれもいなかったはずの教室が、大勢の生徒たちで騒がしくなっていた。時計をみると、始業の十五分前だった。息を吐いてイヤホンを外したとたん、うしろから軽く肩を叩たたかれた。

「冴、おはよ」